陸上自衛隊を辞めて米国永住権を取ったけど、帰国して看護師になりました
「mariちゃん!今すぐテレビをつけて!日本が大変なことになってるから!!!」
私がホノルルで働いていた頃のことだ。仕事へ行く準備をしていると、突然、現地の友人からそんな電話がかかってきた。
と同時に、街中に警報が鳴り響いた。
訳が分からず慌ててテレビをつけると、黒い巨大な波が、ものすごいスピードで田んぼを飲み込んでいく映像が流れた。
見出しには、
「Tsunami in Japan(日本で津波発生)」
「Big disaster(大災害)」
の文字。
そう、忘れもしない、2011年3月11日 東日本大震災の日のことだ。
「日本で大地震があって、大きい津波がきたんだって!!日本、めちゃくちゃになってるらしいよ!!」
言葉が出なかった。その光景が現実のものだと思えず、しばし立ち尽くした。
…とりあえず、仕事に行かなきゃ。
職場でも津波の話で持ちきりだった。しかしここはハワイ。自分の祖国の災害でありながら、どこか遠い国のことのような、現実味のない感覚があった。いつもと変わらない時間が流れていることに、少し違和感があった。
そんな時、1人の日本人女性が来店した。顔が青ざめ、具合が悪そうにしている。
「大丈夫ですか?」
と声をかけると、彼女は絞り出すような細い声でこう言った。
「日本で…地震と津波があったの知ってますか…?私が飛行機に乗ってる間に津波がきて…家が流されたみたいで…。家族も友達も連絡が取れなくて…。ハワイに来たら、帰る所がなくなって…みんないなくなってしまいました…。私、どこに帰ればいいんでしょうか…。」
かける言葉もなかった。
その日はずっと、彼女の言葉を引きずっていた。大切な家族や友達を突然失うなんて、想像することすら耐え難い。
私に、何か出来ることはないだろうか。
元自衛官として、何かしたい衝動に駆られた。しかし、ハワイにいては、ネットで募金をすることくらいしか思い付かない。
よし、日本に帰ろう。
永住権は、2年以内に米国へ帰国すれば失効せずに済む(当時はそうだった)。
震災後、しばらくは日本ーホノルルの全航空便が停止していたため、復旧した3月末頃に帰国した。
そしてすぐに、元自衛官として「予備自衛官」制度に登録し、災害派遣への参加を希望した。
当時は、前代未聞の大災害のため、予備自衛官も初めて災害派遣に招集されるのではないかと言われていた時期だった。
実際にこの災害では、所属部隊は不明だが、即応予備自衛官2,179人、予備自衛官441人が招集された。
しかし結局、私が所属する部隊に災害派遣がかかることはなかった。後から聞いた話によると、近隣の県からは医師や看護師の免許を持つ予備自衛官が数名、派遣されたということだった。
悔しかった。
何かしたい、誰かを助けたい、という気持ちが先走って帰国したものの、何も出来なかった。
「誰かを助ける」というのは、熱意や体力だけでなく、実際に人を助けられる「知識」や「技術」も必要なのだと思い知らされた。
震災から数ヶ月が経った。
このままハワイに帰ろうか。また、あの緩やかな日常に戻るのも悪くない。
しばらく考えた。それもいいけど、でも、やっぱり…
よし、看護師になろう。
永住権は失効するかもしれない。でもこのままハワイに戻ることは出来ない。何かしたい想いは消えなかった。
その時、私はすでにアラサーだった。迷う暇はない。
すぐに看護学校を調べ、数日後には願書を提出、受験勉強を始めた。思い立ったらすぐ行動だ。
真っ直ぐな行動は実を結ぶ。
翌年、私は看護学生になった。看護学校での日々は、あまり思い出したくない。様々な壁にぶち当たり、挫折しようとしたことも多々あった。しかし、すべてを失ったあの女性や被災地のことを何度も思い出し、乗り越え続けた。私には友人がいる、家族もいる、帰る家もある。
そして3年後、私は看護師になった。
ハワイから戻ったあの時よりは、誰かを助けられる「知識」と「技術」、そして「経験」が増えていると思う。
あの選択をしたからー
私は現在、看護師として病院に勤務しながら、予備自衛官として訓練に参加し続けている。
招集されない世の中であることが1番である。
しかしいつか誰かを助けるために、私はこの日本という国で、二足の草鞋を履き続けるであろう。