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その正論は果たして正義か

昔、新聞社に勤めていた父から聞いた話。

京都府の北部の小さな村での出来事。
ひとりの男子中学生が村の商店で万引きをした。
警察に通報され、少年は補導された。
その後、取り調べから審判に向けて法的な手続きが進んだ。
しかし、その途中で、担当した警官が正当な取り調べをせずに書類を捏造していたことが発覚した。
結局、少年が罪に問われることはなかった。

ここまでが当時新聞誌面に掲載された内容。
警察官の書類捏造による冤罪として、事件は終わった筈だった。

その後、少年の母親から新聞社に手紙が届いた。

その内容は、実は少年は実際に万引きをしていたというものだった。
しかし、小さな村でそのようなことになれば、村八分になる。

村八分というのは、村落という共同体の中で秩序を破った者に対してなされる制裁行為。
八分の意味は、さまざまな共同行為のうち、葬式と火事の2つ以外は、一切の交流を断つというもの。

このまま放置すれば少年が罪に問われることはなく、家族も今まで通り生活していくことができる。
そして母親と少年さえ黙っていれば、恐らく誰にも真実を知られることはない。
少年も反省しており、同じ過ちを犯すことはないであろう。
しかし、正直に警察に報告すれば、本人はもちろん、家族もその村では生活していくことはできなくなる。

どうするべきか。

迷った母親は当時取材を受けていた記者にその悩みを打ち明けてきたのだ。

手紙を読んだ記者も悩んだ。

真実を報道する記者としての使命。そして、一人間としてのあり方。
何が正しい行動なのか。

迷った記者はこの内容を新聞社の社内報に書いた。

その社内報を読んだ父がこの話を聞かせてくれた。

その後、この事件がどうなったのかは知らない。

もちろん、母親は警察に報告するべきであろう。
そして少年は罪を償うべきであろう。
記者は真実を報道するべきであろう。
それが正論というやつだ。

しかし、その正論は本当に正義なのだろうか。

正論は正論なのだからわかっている。
そして、正論を貫き通すことにも決断と勇気がいることもわかっている。

でもね、というわけだ。

正論が必ずしも正義とは限らないと信じて、正論に対しては常に、でもねという視点を持っていたい。
そしてでき得れば、正義の側に立っていたい。

このことを思い出すたびに考えている。
しかし、いまだに正解はわからない。













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