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『少年とボクサー』

少年は生まれた時から重篤な《病》を抱えていた。
《医者》は、
「治療することは現在の《医学》では難しい、できるのは侵食をできるだけ遅らせる、はっきり言えば、最後の時を少しでも遅らせる、それだけだ」
と両親に伝えた。
「もちろん今すぐに終わらせることも可能だ」とも付け加えた。
両親は悩んだ。
人に相談できるものではない。
2人だけで、毎晩語り明かした。
気がつけば、どちらかが涙を流していることもあった。
意見が食い違うこともあった。
しかし、最終的には2人は運命を受け入れた。
2人が育てることを望み、その結果やってきた少年。
それがどんな状態であれ、たとえ不治の《病》を抱えていようとも、その少年を育てることが、2人に課せられた試練なのだと。

2人は少年を自宅に引き取り、自然な環境で育てることを選んだ。
《医者》も懸命に診療にあたった。
少しでも少年が両親と長くいられるように。
両親がいい思い出を1日でも多く作れるように。
両親と少年が、このような熱心な《医者》に巡り会えたことも、運命であったかもしれない。

その甲斐あってか、少年は両親の心配をよそに順調に育った。
少年が1人で走り回れるようになると、少しずつ友だちもできた。
少年のために用意した広い芝生の上で、友だちと走り回る少年を見て、目を細める両親。
その表情に見えるのは、微笑みでもあり、やがてやってくる悲しみを少しずつ消費しておこうとしているようでもあった。
友だちの家族を招いてのパーティーもときおり開いた。
やってきた親たちと、相手の子を褒めたり、自分の子の愚痴をこぼしたりしていると、親というカテゴリーに入ることができた喜びを味わうことができる。
そんな夜は、ついつい少年を強く抱きしめすぎた。
「僕、壊れちゃうよ」

少年が小学校にあがろうという時に、眠っていた《病》は突然その存在をあらわにした。
病室の廊下で、《医者》は両親に首を振った。
「もう、数日か、数週間か。少なくとも、数ヶ月はない」
冷たい廊下にひざまづいた両親に向かって、《医者》は提案した。

ボクサーはコーチのミットをたたき続けた。
頭を振るたびに、汗がマットに飛び散る。
「ワン、ツー」
「ワン、ツー、スリー」
「フック、フック、アッパー」
指示通りに的確なパンチを繰り出している。
しかし、次第に呼吸が荒くなる。
コーチが叫ぶ。
「へい、チャンプ、お前はチャンプだ」
「それとも、若造に明け渡すのか」
「マットに寝ころびたいか、立っていたいか」
ボクサーは白い歯を食いしばった。
前評判では、若い挑戦者が圧倒的に有利だとされている。
経験こそ少ないものの、無敗でここまで勝ち上がってきた。
マスコミは、新旧の入れ替わりを盛んに煽った。
試合が1週間後に迫った夜、コーチは電話を受けた。

《医者》が開けたドアに、コーチに続いてボクサーが足を踏み込んだのは試合の前日だった。
思っていたよりも明るい病室に少し驚く。
話を聞いた時にもっと暗い病室を想像していた自分を少し恥じた。
《医者》に促されて、ベッドの横に立つ。
そこには、小学校にあがろうかという年頃の少年が目を閉じて横たわっていた。
「彼がぜひあなたにお会いしたいと」
そう言って《医者》はかがみ込むと少年の耳に短く囁いた。
少年の目が薄く開かれ、少し笑った。
廊下の向こうでは、少年の両親がこの光景を見つめている。
両親にとっては、一度だけ3人でテレビで見たボクサーの試合を、少年が覚えていたことがそもそも驚きではあった。
そして、最後の望みがこれであるとは。
《医者》は少年の手を取って、ボクサーの顔を見た。
ボクサーはその小さな手を握った。
しばらく少年を見つめると、口を開いた。
「悪いが、俺は誰かのために戦ったりはしない。自分のために戦う。俺は、自分のために生きているからだ。だから、俺の勝利は俺のものだ。誰かに捧げたりはしない。せっかく呼んでもらって申し訳ないが。君と君の両親が苦しまないことを祈っている」
そして、コーチと顔を合わせると背を向けた。
ドアを出ようとする時に立ち止まり、振り向いた。
「今言ったように、俺の勝利は俺のものだ。しかし、もし君が俺の勝利で少しでも元気が出るというのなら、そうだと誓ってくれるのなら、明日、どんなパンチを喰らっても俺は立っていられる」

チャンピオン有利に進んだ試合は、9ラウンド、残り1分のところで逆転した。
離れ際に放った挑戦者の左フックが、チャンピオンの顎をとらえた。
顎からマットに沈み込むチャンピオン。
観客は立ち上がる。
ニュートラルコーナーで両手を上げる挑戦者。
しかし、次第に静まり返る会場にレフェリーのカウントを取る声が響き渡る。
「…シックス、セブン…」
終わっていなかったのだ。
観客は着席して、リング上に目をやる。
チャンピオンがロープにつかまるようにして立ち上がり、ファイティングポーズをとった。
襲いかかる挑戦者。
再び前のめりに倒れるチャンピオン。
そして彼は立ち上がる。
問いかけるレフェリーにうなづく目はうつろだ。
若い力のみなぎった右ストレートにロープまでよろけて座り込む。
フリーノックダウンのルールを守って、三たびカウントをとるレフェリー。
立ち上がるチャンピオンを、立ち上がる人を初めて見るかのように見つめる挑戦者。
結局、チャンピオンはもう一度倒れて立ち上がり、その次に倒れた時に、セコンドがタオルを投げ入れた。
チャンピオンは、担架で運び出された。
体のあちらこちらに隙間ができていた。
翌日の新聞。
「タオルが遅すぎた」
「再生不可能か」

その時に、チャンピオンの頭には前日の少年との約束が浮かんでいたというのは、フィクションとしてもあまりにも陳腐だ。
しかし、それを否定するデータもない。
少年は、その後1年間生き延びた。
ここに何らかの因果関係があるのかどうかもわからない。
そんなものが2人の間に発生していたのかどうか。
我々は、我々の作り上げたものを全て解明したわけではないのだ。
そうだとしても、ここにまで運命を認めるのは、あまりにも運命を肯定しすぎではないか。
そう言われるかもしれない。
たが、次の話を聞けばどうだろうか。

少年はその後、チャンピオンと同じ《再生工場》に送られて、2人は同じ日に新しく《出荷》された。
両親は少年の《死》の後に、新しい少年を迎え入れて、今度は立派に育て上げた。
成長した少年が連れてきた婚約者の瞳が、彼らになぜか古い記憶を掻き立てた。

ここに運命を感じたとしても、卑下する必要はない。
運命とは我々の後ろにしか存在しないのだから。
それに、あなたが人間でないのならば、それは、人間に近づいた証拠でもあるだろう。

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