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「怒り」渦巻く社会で生きるということ

2020年11月6日に執筆したものです。


新型コロナウイルスが猛威を震い始めると、電車内や商業施設などでマスクをしていない人を厳しく叱責する、いわゆる「マスク警察」と呼ばれる人たちが増え、酷いケースでは暴行に及んだ事件なども報道されました。

また、緊急事態宣言や飲食店の休業要請下で、外出している人や、営業をしている店舗への攻撃的な振る舞いも問題になりました。

このコロナ禍で浮き彫りになったのは、人の中に厳然として渦巻く他者への「怒り」。

人は誰しも多かれ少なかれ、心の澱を抱えているものです。うまくいかないこと、後悔していること、傷ついていること、乗り越えられないこと、直視できないこと・・・それらに翻弄されないように、押しつぶされないように、日々折り合いをつけながら懸命に生きています。

これらは日頃、雑多な日常に押し留められてはいますが、地中に発生したマグマのように蓄積され、地上へ吹き出すのを待っているのです。そしてその火の粉は他者へと向かいます。


木村花さんの死

私は小学生の頃からプロレスファンでした。

当時、家庭環境の不和に心を痛め、入退院を繰り返す母と、多忙な父から十分な愛情を受け取っていないと感じていた私は、いつも漠然とした心細さと不安と寂しさに震えていたものです。

そんな時、父に連れられて行ったプロレスが私の傷ついた心を癒してくれました。

そこにあったのは、人の心を陰湿に踏みにじるものでも、裏切るものでもなく、裸になった屈強な男たちが向かい合い、相手の技を真正面から受けて立つ、潔さ。

時には感情を爆発させ、心を解き放つその姿に、自分の知る世界にはない「清さ」と「尊さ」を感じたのです。

相手に技をかければ、自分も反撃を受ける。つまり相手の感じる痛みは、自分の痛みでもあります。

痛みを知った人というのは、とても神々しいのです。険しい表情の中にとてつもない優しさと愛を感じます。幼い私には、四角いリングで闘う選手たちが、ゴルゴダの丘で磔刑されるキリストのようにさえ見えたものです。

それから私は熱狂的なプロレスファンとなり、人生の様々な場面で背中を押され、勇気づけられて生きてきました。

プロレスを知らない多くの人が「プロレスなんて...」と嘲笑する雰囲気というものを感じることもありますが、プロレスというものは「生きづらさ」を抱える多くの人たちの心の杖となってくれるものなのです。

そんなプロレスファンの私を、このコロナ禍に襲ったのが女子プロレスラー・木村花選手の訃報でした。様々な媒体で、たくさん報道されましたので、その死の経緯をご存知の方は多いかもしれません。

木村花さんは、女子プロレス団体「スターダム」の看板スター選手。将来を嘱望され、いずれ日本にとどまらずワールドワイドに活躍する選手になるものだと誰しもが固く信じていました。

彼女は、昨年よりリアリティ番組の「テラスハウス」に出演するようになります。その出演もプロレスをメジャーにしたい、特に自分と同世代の若い女性にこそ、会場で生のプロレスを観てもらいたいという切なる願いが込められていたものでした。

この「テラスハウス」内での彼女の言動が元で、TwitterやInstagramなどのSNSで執拗な誹謗中傷を受けることとなります。

私は彼女のSNSをフォローしていました。気丈に振る舞う投稿の端々には、他者ではなく自分や自分の人生を責める心の叫びが見られ、胸が痛みました。

そして5月24日未明、彼女は自ら命を絶ってしまいます。


SNSで広がる「怒り」の炎

誰からも愛され、輝かしい未来が待っていたはずのまだ22歳の1人の若者は、SNSに跋扈する、" 他者の言動に過剰に反応する人たち" の利己的な思考によって追い詰められ、命を落としたのです。

SNSは人間の愚かさを浮き彫りにします。

著名人の不倫、事件事故、薬物などのスキャンダルがひとたび起きれば、匿名性に担保されつつ、あたかも自らが「正義の権化」であるかの如く、一方的に人格を否定し、攻撃します。他者の観念、他者の価値観を認めることが出来ないからです。

その著名人を責めても許されるのは、その問題に関わった当事者だけであるはずです。

自分は蚊帳の外にいる部外者でしかなく、問題を起こした当事者の人生の機微や、心の叫び、そこに至った深い経緯も知らないのです。自分の小さな、小さな物差しで他者を測ることなど出来ません。

著名人のスキャンダルは、私たちが日頃忍ばせている「心の澱」「マグマ」に火をつけます。自分がいかにも「正義」であると思いたい、「正しい」と思いたい欲求が、その着火のエネルギー源です。

一度「怒り」の炎に火がつくと、それはメラメラと燃え盛り、他者どころか自分さえも傷つけます。

しかし、この炎で自らが負った火傷に気付くのは、大抵かなり時間が経ってから。

「怒り」を発散している間は、溜め込んだマグマを吐き出している状態ですから、本人は開放感に満ち溢れ、恍惚を感じるのです。


「怒り」に根ざした「幸せ」はあり得ない

私にご相談をいただく方の中にも、ご両親のどちらかや、配偶者、友人知人などに積年の憎悪を抱えてしまっている方が見受けられます。

誰かへの「怒り」や「恨み」が根底にあるからこそ、それがバネになって私は社会的に成功しているのだ、人生を謳歌しているのだと主張される方も時折いらっしゃいます。

私はそうした方々の「成功」や「幸せ」が長続きしているのを見たことがありません。

その「成功」と「幸せ」が、「怒り」や「恨み」に根ざしたものである以上、それは本当に価値のある「成功」や「幸せ」だとは思えません。

「怒り」や「恨み」の多くは、幼少期の愛の欠如や、挫折体験から生まれます。

愛されたかった、守られたかった、抱きしめられたかった、肯定して欲しかった、そんな切なる思いが届かなかったり、成し遂げられなかった時に、人は自分の心に鎧を着せ、周囲には強靭な防御壁を築き上げます。

いつも自分の期待していたことが、期待通りにはいかないのだ、裏切られてしまうのだと、まだ起こっていない未来に対して「傷つくことのリハーサル」を繰り返してしまいます。

自分の心を防御することに精一杯だと当然、人の心を想像力いっぱいに慮ることなどできません。

自分で自分の未来を閉ざし、決めつけ、自分が傷つくことの怖さとばかり対峙し続けていることが、人への「怒り」と「恨み」を増幅させていくのです。

また挫折体験とは、進学できなかった、会社を解雇された、事業に失敗した、失恋した、離婚したなど、自分が思い描いていた希望に満ちていた未来が、突如として奪われる「喪失」の体験でもあります。

未来への希望を失うと、自分以外の全てのものがキラキラと輝いて見え、自分だけが深い闇の中で孤立しているように錯覚します。

この現状は、自分に責任があると思えているうちは良いのですが、次第に周囲が自分を嘲笑っているかのように感じ、不幸の数ばかりを数えることに時間を割いてしまいます。

自分と人との間にある「差」ばかりに意識が向き、自分がこうなったのは自分以外の誰かのせいだと責任転嫁を始め、そこに「怒り」と「恨み」が巻き起こります。

鎧を着ていると自分の身は守れますが、被った兜を通してだと他者からの善意の声は耳に届かず、相手の口の動きは、自分を非難しているようにしか見えません。

また、着ている鎧は重く体にのしかかり、いずれ這いつくばるしかなくなります。

周囲に築いた防御壁も、自分を守るための手立てでしたが、それによって周囲と隔絶され孤独に陥っていることに気づかされます。


そもそも「他者」とは何か?

他者への「怒り」は必ず、自分に等しく返ってきます。

これは因果応報とか、引き寄せの法則など、宗教や、スピリチュアル的なものではなく、哲学的な視座です。

今は亡き文筆家(哲学者)・池田晶子さんの著書『14歳からの哲学』に基づいて、私たちが「怒り」を向けてしまう「他者」とは、そもそも一体何なのだろうということを考えてみたいと思います。

多くの人は、他者に「怒り」を向け、傷つけても、自分が傷つくわけではないし、その痛みも分からないのだから、自分と他者は違う人間なのだと信じています。

しかし、自分の目の前にいる人と、あなた自身は、本当に違う人間なのでしょうか?

他者が他者として存在している確証はあるでしょうか?

あなたの目の前にいる人は、本当に存在しているのでしょうか?

あなたの配偶者、子供、同僚、友人知人は明らかにそこに存在していて、体も自分とは別々ですね。あなたのお子さんが目の前で転んだとしても、あなたが傷を負うことはありませんし、あなたが痛みを感じることもありません。自分のこれまでの経験値を引っ張り出してきて、その痛みを想像することは可能ですが、痛いのはあくまでお子さんであって、あなたではありません。

体の痛みだけではなく心も同様です。あなたの友人が愛する人を亡くした時、その悲しみを想像して共に悲しんであげることはできますが、友人の本当の心の痛みを理解することはできません。

だからこそ、私たちは体も心も別々に存在している人々を他者だと認識しています。しかし、それを疑って見ることで、新たな世界を見出すことが出来ます。

あなたは、他者の目をもって世界を見渡すことはできませんね。他者の瞳に映っている自分の姿を見ることはできますが、他者の見ている、他者の視点での世界は、他者だけのものであって、あなたのものではありません。

これを自分に置き換えましょう。この世に存在するものは、あなたの目を通して起こっていますね。あなたが「見たり」「感じたり」していることが世界で起こっていることです。すなわち世界のすべてのことは、あなた自身に依っているということ。あなたが存在していなければ、世界は存在していないんです。

世界が存在するから自分が存在するんじゃない。世界は、それを見て、それを考えている自分において存在しているんだ。つまり、自分が世界なんだ。

自分が世界であり、世界は自分において存在しているのだから、当然、他人というものの存在もそうだということになる。世界にはたくさんの他人が存在していて、それぞれに生きているけれども、それらはすべて、自分が見ているその光景だ。もし自分が存在しなくて、自分が見ているのでなければ、それらは一切存在しない。なぜなら、それらを見ている自分が存在しないからだ。

『14歳からの哲学 考えるための教科書』池田晶子(著)トランスビュー より

ここで分かるのは、哲学を通してみる「他者」とは「自分」であるということなのです。

池田晶子さんは、考えているのも自分、見ているのも自分であり、自分でないものが考えたり見たりしているということはあり得ない、自分という存在が絶対的なものであるから、これを「大きい方の自分」と仮定し、その絶対的な自分に気づいていない自分を「小さい方の自分」と仮定しました。

他人の痛みを分からない、心を理解出来ないのは「小さい方の自分」からしか世界を見ていないと説明します。

ですから、「怒り」を発散することは、他者への攻撃であるのと同時に、自分への攻撃でもあるということを意味します。

自分が存在する世界は、自らが築いたもの。あなた自身が主役であり、あなたこそが創造主なんですね。その世界を、自分で汚す必要はありません。自分を傷つける必要もないのです。

他人の痛みを、自分の痛みと同様に感じられるということは、つまりあなた自身が、あなた自身であることに「気づいている」ということ。自分に「目覚めている」ということなのです。それが「大きい方の自分」という視点に立っていることを示すものです。

自分が世界である証拠に、あなたの目にする「死」はいつも他者の「死」であって、あなた自身の「死」ではないのです。


「怒り」はあっても良い


このコロナ禍の中で、長年に渡ってくすぶり続けていた日本人の「怒り」の想念が一気に表出してきたような危うさを感じながら、この数ヶ月を過ごしてきました。

一つ、誤解なきようにお伝えしておきたいのは「怒り」の感情そのものを否定しているわけではないということです。

日々の暮らしの中で、腹立たしいこと、納得できないことは多いのに「怒り」がいけないなんて言われたら、どうやって生きていけばいいの?と思われた方もいらっしゃるかもしれません。

自分の中にふつふつとして湧き上がる「怒り」は、時に自分自身が重い腰を上げることに繋がることがありますし、愛する者を守る行為になることさえあります。

むしろ、人がこの社会で文化的な営みを享受できているのは、それぞれの時代を生きた人々が、ある対象に対して "抗い"、正義や公正を求めて拳を握り締めた "内なる"「怒り」という感情が礎になってきた歴史的な背景もあるのではないでしょうか。

今回のアメリカ大統領選挙もそうですね。ドナルド・トランプが招いた「分断と憎悪」の拡大に対する「怒り」が、多くのアメリカ国民の心を動かし「団結と融和」を主張したジョー・バイデンを劇的勝利に導いたのですから。

では、私が何を言いたいのか。それは「内に秘める怒り」や、「心に突然わき起こる怒り」の否定ではなく、「特定の個人に対して、その尊厳や人格を否定する "怒り"」をコントロールすべきだということなのです。

もしあなたが、今誰かを恨んでいたり、許せていなかったり、怒りに打ち震えているとしたら、そしてその感情を周囲にぶつけ、そのせいで目に映る全てのものを悲観的にしか捉えられず、自暴自棄に陥っているとしたら、それはあなた自身に必ずや等分に返ってくるでしょう。

あなたの周囲にいる人々、そしてあなたに今ある環境は、それがどんなものであろうとも、今のあなたに相応しいもの。それらは全て映し鏡です。あなたの目の前にいる人は、あなた自身が鏡に映った姿なのです。

人への「怒り」「憎悪」は、すなわち、自分への「怒り」と「憎悪」。

その対象を「許し」、「愛する」ことで、あなたはいつだって幸せを感受できるのに、それを拒んでいるのはあなたの方なのかもしれません。


「怒り」とは何か

「怒り」とは人間にとって、いえ生きとし生けるものにとって、とても原始的で、基本的な感情だといっても良いでしょう。

進化の過程で脳に組み込まれた、生存し、繁栄するための重要な機能の一つです。

少しだけ「怒り」を、脳の構造を元に紐解いてみましょう。

主に「大脳新皮質」「大脳辺縁系」「脳幹」の3つの構造に分類される「大脳」。

大脳新皮質は、合理的な思考や言語機能を司る、いわゆる「知性」を担う部分です。大脳辺縁系は、情動の表出、意欲や記憶を司る「感情」を担います。大脳を支え、脳と脊髄とを結ぶ脳幹は、生命維持に関与する意識や呼吸を司ります。

「怒り」を感じる事態が目の前で起こった時、活発化するのがこのうちの大脳辺縁系です。大脳辺縁系の一部である「扁桃体」が目前で発生した理不尽な出来事や、不測の事態に反応し、警報を鳴らし始めます。

この警報に従って、脳の「視床下部」に対し、それらの事態に「対処」するように指令が伝わります。指令はさらに「副腎」に達して、アドレナリン 、ノルアドレナリン、コルチゾール、テストステロンの分泌を促し、攻撃的な感情を高めていくことになります。

こうしたストレスホルモンの分泌は心臓にも影響を及ぼすため、「怒る」ことで心拍数は増え、血圧も上昇するのです。

一方で、この「怒り」をコントロールし、抑制する機能も脳には備わっています。それが「前頭葉」と呼ばれる部分です。

前頭葉の「前頭前野」は、創造やコミュニケーション、自制心や論理的思考、意思決定を司っており、状況に対して冷静に対処し、「怒り」を抑制する働きをしています。

研究では、「カッと」腹が立ってから前頭前野がそれに対処すべく反応を開始するまで、2秒の時間を要することが分かっています。

また、「アンガーマネージメント」といわれるアメリカ発の感情制御の手法では、「カッとなった時には心の中で6秒をカウントする」という方法を採用しています。これは、アドレナリン の分泌のピークが「カッとした瞬間から6秒」であるためです。

この「2秒」と「6秒」の意味を覚えておくことは重要かもしれません。

ただし、この「怒り」を抑制する前頭葉は、40代を過ぎると衰え始めるといわれています。カッとなって「キレやすい」のは若者だというイメージは間違いで、実は中高年や高齢者の方が医学的に見ても「キレやすい」のです。

前頭葉は、新しい刺激的な体験や、人との密接な関わりで活性化することが分かっています。高齢になればなるほど、自分の年齢をことさら恥じたり、言い訳にして、新しいことへのチャレンジを拒み、それによって社会的な孤立を深めていくことは社会問題として認識されます。

「怒り」にうまく対処し、自分も、他者も幸せへと導くためには、前頭葉が衰え始める40代前後の生き方、ライフワークの構築がいかに大切なものなのかが分かります。

「怒り」はぶつけるものではなく、「発散」するもの、「蓄積」は最もNGです。

自分の輝きに気づいて、人生を謳歌する術を模索する。それが重要なのです。


「意識」を送る

「怒り」を特定の人物にぶつけた場合、相手だけでなく自分も傷付きます。罪悪感に苛まれ、後悔が押し寄せます。「怒り」を外に放出したからといって、その原因は何一つ解決しないのです。

他者も、自分も痛手を追ってしまう「怒り」の想念。

それならば、この想念を「善なるもの」に置き換えれば、それが伝播し、人はもっと幸せになれるのではないかという疑問が湧きます。

医療ジャーナリストであるリン・マクタガート氏が行った実験は、とても興味深く、その問いに答えてくれるものです。

どのような実験だったのかご紹介しましょう。

彼女の著作の読者から選ばれた参加者を8人のグループに分け、グループ内の誰かの健康に関して意識を送るというものです。

まず手始めに、インターネットを介して実験が行われました。WEB上の非公開コミュニティ内で、被験者に「癒し」の意識を送るのです。

この最初の実験の被験者は、テネシー州出身の退役軍人、ドン・ベリー。彼は、強直性脊椎炎と診断されていました。この病は原因不明のリウマチ性疾患で、遺伝的要因による免疫異常の可能性が疑われています。

彼の脊椎は固まったままで、20年間体を満足に動かすことはできません。このドンに向けて週2回、癒しの意識が送られたのです。

彼はこう言います。

癒しの意識が送られている間、気分がよくなりました。すぐに治ったというわけではないけれども、健康状態はよくなり、痛みが軽くなりました。

それから8ヶ月後。半年に1回のリウマチ専門医の検診で、担当医に現状を尋ねられてドンは・・・

脊椎はいまだ固まったままなのですが、以前より腰を曲げられるようになった感じがしますし、痛みがずっと軽くなりました。時々は痛みがあるものの、これまでで一番気分がいいです。

と答えます。

そして、担当医はドンの心音を聞こうと聴診器を取り出して、深呼吸をするように促します。静かに聴診器から聞こえてくる心音に耳を傾けていた担当医は驚きの声をあげます。

今、胸部が動き出しましたよ。

ドンはこう話します。

医師は本当に口をあんぐり開けて座っていましたよ。私の胸部が動いたのです!自分が正常な人間に戻った気がしています。意識を送ってもらった実験ですぐに癒しが起こったわけではないのですが、まるで歯車が動き出したように気分がよくなったのです。そして、私の気分がどれほど健康状態と周りの環境に影響されていたか認識しました。

この結果を受けてリンは、互いに面識がない100人の参加者を8人ずつのグループに分け、そのうち心身に問題を抱える人、1人に意識を送られるターゲットになってもらい本格的な実験を始めるのです。

この実験の名称は「パワー・オブ・エイト(8人の意識の力)」と名づけられました。

参加者は円になって集まり、互いに手を繋ぐか、円の中心にいるターゲット(被験者)に車輪のスポークのような形になるように、全員が片方の手を置きます。

そして全員が目を閉じ、リンが「パワリング・アップ」と呼ぶ方法で集中し、意識を送り始めます。

その方法の要約は以下のようなものです。

●意識を送る空間に入る。
●瞑想をしてパワリング・アップする。
●今ここにいる感覚をしっかり感じて集中力を頂点まで高める。
●深い思いやりを持って相手と波動を合わせ、有意義なつながりを構築する。
●あなたの送る意識を言葉にして述べ、できるだけ詳細に語る。
●心の中ですべての感覚を駆使して、あらゆる瞬間をリハーサルする。
●できるだけ鮮明にはっきりと、意識したものがすでにできあがった事実であるかのようにビジュアライズする。
●タイミングを選んで、自分が幸せで健康だと思える時に意識を送る。
●まかせる。宇宙の力にまかせ、結果も自然に起こるようにする。

こうした手順を踏みながら行われる実験において、ターゲットに様々な奇跡や不思議が起こります。

生後24週の赤ちゃんイザベラは、体重570グラム、形成不全の腸をもち、内臓は連鎖球菌感染症にかかっていました。そのイザベラがターゲットになった結果、正常な発育を遂げて8ヶ月後には退院して健康体となったのです。

また、この実験は胎児に対しても行われました。スウェーデンに住むジュリーンは心臓欠陥の難病がある男の子を妊娠したことが分かったのです。無事に生まれても自発呼吸は難しいとの診断でした。この胎児に対する実験でも奇跡は起こります。実験後にロータスと名付けられた男の子は、無事に成長を遂げます。

また、"そこにいない人物"がターゲットとなったこともありました。家出をした10代の少女です。実験の参加者は「母と娘が互いにもっと心を開いてコミュニケーションを取れるように」と意識を送ったのです。すると、3週間後に少女は家に戻り、母娘は絆を取り戻しました。

その後、実験はインターネットを介した参加者1万人以上の大規模なものへと発展をし、"地球上で最も多くの人が命を落としている紛争地" スリランカ北部ワンニ地区に平和と共存が訪れ、戦争に関する暴力が10%減少する、という意識を送る試みがなされました。

その結果、実験1週間後には負傷者が激減、9ヶ月後には25年に及ぶ内戦の歴史が幕を閉じたのです。

そればかりか、この大規模実験ではある重要な事実が明るみになるのです。

「意識」の作用による素晴らしい影響は、ターゲットだけでなく、意識を送った参加者にも及んだのです。


「意識」の力


医療ジャーナリストであるリン・マクタガートが行った「パワー・オブ・エイト(8人の意識の力)」と呼ばれる「意識を送る」実験についてお話ししています。

実験参加者それぞれが手を繋いで円になり、ターゲット(被験者)を囲む、あるいは世界中に散らばっている参加者がウェブページにログインをして、「意識を送る」のです。

この実験は、まず植物の「葉」や「種」をターゲットにして行われました。

葉に対しては、「輝く葉のイメージ」が送られ、種に対しては「成長を促すイメージ」が送られました。

そして驚くべきことに、科学的な検証の結果、意識を送られた葉は意識を送られなかった葉と比べ "輝きを増し" 、意識を送られた種は意識を送られなかった種と比べ "早い成長を遂げた" のです。

植物へ意識を送る実験では、催眠効果のある瞑想用音楽が流されていました。そこで採用されていたのはアメリカ人の音楽家であるジョナサン・ゴールドマンの「レイキ・チャンツ」というCDの1曲目に収録されている「チョク・レイ」という曲です。

この曲にも、人の意識を増幅させる秘密があるのかもしれません。

このような植物実験を経て、その対象は「人」へと移り変わっていきます。

前回お伝えしたように「意識の力」によって、ある時はスリランカ北部ワンニ地区の紛争が終結し、ある時は形成不全の腸をもった生後間もない赤ちゃんが健康体となり、ある時は家出をした少女が無事に母親の元へ戻るという奇跡が起こったのです。


神秘的合一体験

この「意識」の恩恵を受けたのは、「意識」を送られたターゲットだけではありませんでした。

リン・マクタガートが、ある実験後に行った参加者に対する調査で何千人という人々から寄せられたのが、「まるで自分の脳がネットワークにつながれたような体験」だったという報告。

参加者は「絶対的なものと自己との合一体験」である「神秘的合一(ウニオ・ミュスティカ)」の状態へ至っていたのです。

「神秘的合一」と聞くと、少し難しい印象をもたれるかもしれませんので、分かりやすく考えてみましょう。

人は、普通に暮らしていれば決して「自己」という枠から抜け出ることはできませんね。自分の目で見ているもの、自分の手で触れているもの、自分の心で感じているものは、すべて「自己」という範疇の中で得られている感覚です。その反対に、他者の見ているものや、触れているもの、感じているものを「自己」のものとして得ることはできません。

そうした意味では、私たち人間はとても孤独な存在であるともいえます。

「神秘的合一」とは、こうした孤独さからの脱却を意味します。この世で生きている限り逃れられない「自己」という枠を離れ、自分以外の存在(それは絶対者・神といわれる存在であったり、他者であったりします)と、心の最も深い部分でつながり、合わさる体験です。

参加者は、その体験を以下のように語ります。

「腕や手に流れるエネルギーの流れを意識すると、流れはある方向に向かって、力を大量に放出しているようでした」

「体中がしびれて、鳥肌が立ちました」

「自分の皮膚がみんなとつながっているように感じました」

「自分の周りに強い磁場が生まれたようでした」

「あの時感じていたことから離れたくありませんでした。とても意義深い体験でした」

「実験が終わると、実験中に感じていたことが消えました」

『パワー・オブ・エイト 最新科学でわかった「意識」が起こす奇跡』リン・マクタガート(著)、島津公美(訳)ダイヤモンド社 より

これまで多くの神秘主義者たちが追い求めた秘儀的な至高体験を、修行や学びといった過程を経ることなく "ただ人々とともに意識を送っているだけ" で体感したことは、注目に値する画期的な出来事です。

他にも意識を送っている最中、「胸部が開いた感覚」を得た人や、「詳細な幻覚が見えた」人、「匂いがした」人などがおり、その多くの人たちが実験中、ずっと涙が流していたのです。

これは、たくさんの人々が「善意に満ちた意識」を送ることで一つになり、つながっている感覚に圧倒された涙だったのです。


「善意の意識」を送った人々に訪れる変化

実験中に得られる「神秘的合一(ウニオ・ミュスティカ)」の体験だけでも十分に素晴らしいものですが、それだけではありませんでした。

「グループで祈りを捧げると、参加者の多くに、深く永遠に続く心理的な変化が起こった可能性が高く、人生の多くの局面が改善された」

『パワー・オブ・エイト 最新科学でわかった「意識」が起こす奇跡』リン・マクタガート(著)、島津公美(訳)ダイヤモンド社 より

というのです。

参加者は、実験参加後にそれぞれの生活に戻ったあと、人間関係が改善されるなどの変化が起こったことが分かったのです。

さらに参加者は、

「さらに深く人とつながり」

「互いの相違点へ橋をかける努力をするようになり」

「人に対して心を開けるようになり」

「新たな友達を進んで作るようになり」

「自分が愛されることも受け入れられるようになり」

「どの人間関係をはぐくみ、どの人間関係を手放すべきか」

『パワー・オブ・エイト 最新科学でわかった「意識」が起こす奇跡』リン・マクタガート(著)、島津公美(訳)ダイヤモンド社 より

が明確にわかるようになったといいます。

ここに挙げた「意識を送ることで得られた効果」は、SNSで他者に「怒り」をぶつける人たちの思考とは対角に位置するものです。

同調圧力に屈し、自分とは違う、多数派に属しない価値観や観念に、ことごとく憎悪を抱き、排除し、その行為こそ正義であると認識してしまう人々。

私たちは、こうした利己性から脱却できるのでしょうか。

この実験で分かることは非常にシンプル。「一つのことを思い願って、意識を送る」それだけでいいということ。

しかし、人の思考や思想は多様です。それならば、私たち一人一人がパーソナルな立ち位置から、隣にいる人、身近な人を慮る気持ちを高めていくこと、それが大事なのでしょう。


「孤独」に陥る人々

混迷する社会の中で、人はより一層孤独に陥っています。孤独とは人にとって最も深刻な病といってもいいでしょう。

個と個が分離することによって、人は剥き出しになったその心を守るために、他者に対して防御の姿勢を取り、互いにその防御の姿勢を崩さずにいることで、よりいっそう他者との距離が開き、孤独を極めていくループが発生します。

そうした孤独こそが「怒り」の発生源となります。

先日、わたしが住んでいる福岡で大変身につまされる事件が起きました。

今年8月、30歳になる女性が真珠販売店に押し入り、店員にカッターナイフを突きつけて現金を脅し取ろうとした事件が発生します。事件は未遂に終わり、女性はそのまま警察に出頭して逮捕されました。

実はこの女性、物心がついた頃から施設にいたといいます。中学を卒業するまで施設で暮らし、その後は飲食店を転々とする生活をしていました。家族とは断絶状態で、父親の顔は知りません。

今年の2月、務めていた飲食店の店主から突然解雇を言い渡され、家賃が払えなくなった彼女は、そのまま借りていた部屋を飛び出し、福岡市の繁華街へやって来ました。主に公園で寝泊りをし、空腹に耐えられず「食べ物をください」と紙に書いて路上に立つ日々。

公園を行き交う人たちが、優しく声をかけてくれ、現金をもらったこともあったそうです。中には福祉施設への入所を勧める方もいましたが、彼女は「私は健康だし、恥ずかしい」と行政に頼ることを拒んだといいます。

この事件は、まさに現在の日本の陥った「個と個の分離」を象徴する出来事のように思えます。

彼女のように家族や、友人、知人など身近に相談をするような温かい人間関係が皆無であったことは、悲劇としか言いようがなく、極端な例かもしれませんが、家族がいても、友人知人がいても、職場の同僚たちに囲まれていたとしても、人は自らを孤独の淵に追い詰めながら生きているように感じます。

人も、他者も、世界も、地球も、宇宙も、本来は何らかの一部。

「孤独」とは人間が作り出した言葉であって、実はこの世の中に「孤独」というものは存在しないのではないでしょうか。

何かの一部であることを忘れてしまっているからこそ、自分たちが作り出した「孤独」という概念に、雁字搦めに絡めとられてしまっている、そんな気がするのです。

リン・マクタガートが行った実験というのは、「意識」に関する実験ではありましたが、結果的にこの「孤独」を救済する手法を私たちに提起するものとなりました。

「一つの目的のために互いにつながり、意識を送る」ということが、人と人とを強力に結びつける接着剤となり、自分が大いなる全体の一部であることに、本能で気づいた体験だったのでしょう。

私たちが他者へ向ける「怒り」を克服するためには、自分は1人ではないということに気づくことが必要です。

あなたは、あなたであることに間違いはありませんが、あの人も、この人も、そして、あの木々も、あの雲も、あの月さえ、あなた自身なのです。

誰かへ向ける刃のような「怒り」の想念は、相手も自分も傷つけます。しかし「善意」の想念は、相手も自分も「良き人生を歩む素晴らしいきっかけ」を創出するということが、科学的にも実証されているのです。

SNSが人間にとって大いなる「負の遺産」となるか、人と人が真に愛あるつながりを構築し、未来を開く礎になるか、今が瀬戸際なのでしょう。このコロナ禍は、迫りくる感染症に怯える不遇な年という一面だけではなく、孤独を克服する道に進むのか、より孤独を深めていく道に進むのかを迫られているという一面もあるのではないでしょうか。


参考文献

『14歳からの哲学 考えるための教科書』池田晶子(著)トランスビュー
『パワー・オブ・エイト 最新科学でわかった「意識」が起こす奇跡』リン・マクタガート(著)ダイヤモンド社
『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』リン・マクタガート(著)野中浩一(訳)河出書房新社

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