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【読書】嵐のただなかにおける心の安定~『人生の短さについて 他2篇』(セネカ著、中澤務訳)~
アマゾンのプライム・リーディングを利用して読んだ9冊目にあたります。8冊目のレビューより前に、こちらをアップしてしまいます。
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世界史の教員として、もちろんセネカの名前は知っていましたが、マンガ『プリニウス』にも登場したことで、その著作を読んでみたいと思った次第です。
以下、備忘録代わりに心に残った箇所をまとめておきます。
セネカによれば、多忙は人間から有意味な時間を奪い、人生を浪費させて、 短くしてしまいます。われわれは人生が短いと嘆きますが、それは、われわれが時間の無駄使いをしているからにほかなりません。多忙な生活から離れ、時間を有効に活用するすべを知ることによって、われわれは人生を長く することができるのです。本作では、このような人生の短さという問題をめぐり、さまざまな話題が自在に論じられていきます。
訳者の中澤務さんによる、「人生の短さについて」の前書きです。セネカの言いたいことはすでにここに集約されていますが、実際のセネカの言葉を見ていきます。
・「人生の短さについて」
あなたたちが、まるで豊かにあふれる泉から湧いてくるかのように、時間 を無駄使いしているからだ。たぶん、そんなことをしているうちに、あなた たちの最後の日となる、まさにその日がやってくるのだろう―― まあその 日だって[自分のためでなく]別のだれかや、別の用事のために使われて いるわけだがね。
強烈な言葉です。セネカは「自分の心の声を聞き、自分のために時間を使いなさい」と繰り返し言っています。
ひとはだれしも、未来への希望と、現在への嫌悪につき動かされながら、 自分の人生を生き急ぐのだ。しかし、すべての時間を自分のためだけに使う 人、毎日を人生最後の日のように生きる人は、明日を待ち望むことも、明日 を恐れることもない。
やりたいことを先延ばしにしているくせに、今に不満を持つのは愚かなこと、とセネカは言っているわけです。
彼らは、遠い将来のことを考えて計画を立てる。ところが、先延ばしは、 人生の最大の損失なのだ。先延ばしは、次から次に、日々を奪い去っていく。それは、未来を担保にして、今このときを奪い取るのだ。
すべての人間の中で、閑暇な人といえるのは、英知を手にするために時間を使う人だけだ。そのような人だけが、生きているといえる。というのも、そのような人は、自分の人生を上手に管理できるだけでなく、自分の時代に、 すべての時代を付け加えることができるからだ。彼が生まれる以前に過ぎ去っ ていったあらゆる年月が、彼の年月に付け加えられるのである。
過去を生きた優れた人々に学びなさい、というわけです。では私も、セネカから学びましょう。
これらの哲人たちは、いつでも時間を空けてくれる。彼らのもとを訪れれ ば、帰るときにはいっそう幸福になり、自分をいっそう愛するようになっ ている。彼らのもとを去るときには、手ぶらで帰ることを許してくれない。 そして、夜であろうが昼であろうが、すべての人間が、彼らのもとを訪れる ことができるのである。
なんて贅沢な話でしょう。しかも彼らは見返りは求めないのですから。
われわれは、よくこう言う―― われわれは、だれを自分の親にするかを選べ なかった。親は偶然によって与えられるものなのだと。ところが、必ずしも そうではない。われわれには、自分の望みどおりの親の子として生まれることも許されているのだ。きわめて高貴な天才たちには[学派という ]それぞれの家がある。どの家の子になりたいか選び なさい。あなたは、たんに家の名だけでなく、財産をも受け継ぐことになるだろう。
古代ローマ時代にも「親ガチャ」的なことを言う人がいたことにも、セネカがその主張を軽々と退けていることにも、びっくりです。
・「母ヘルウィアへのなぐさめ」
火葬場のたきぎの中から頭を出しているような人間が、近親者たちをなぐさめようというのです。
セネカがコルシカ島に島流しになったことを嘆いているお母さんを、セネカ自身がなぐさめようとしていることの例えですが、何だかおかしみを感じます。
・「心の安定について」
自分自身に軽蔑されるようなことをしなければ、だれも、他人に軽蔑される ことはないのです。
なるほど。
どこに隠れて自分の閑暇を過ごすにせよ、知性と言葉と助言を使って、 個々人はおろか、人類全体の役に立ちたいという思いを持つことだ。じっさい、国家の役に立てるのは、官職に立候補した人を支援する人や、被告人 を弁護する人や、和睦か戦争かを決議する人だけではない。若者を育成する 人だってそうだし、よい教師が不足している昨今では、若者の心に徳を植え つける人だってそうなのだ。 (中略)このような人たちは、私生活の中で、公共の仕事に従事しているのだ。
教員である私にとって、励みになる言葉です。
究極の悪とは、死ぬ前から、生きている者のうちに数えてもらえなくなることなのだ。 いずれにせよ、国事に携わる中で、ものごとが思い通りに進ま ないようなときには、より多くの閑暇を作り、学問のために使うべきであろ う。危険な航海をするときのように、こまめに安全な港を探すのだ。公務が 自分を解放してくれるのを待っていてはいけない。みずからの手で、自分を 公務から解放するのだ。
今年度は少し忙しくしているので、この言葉は心に留めておきたいです。
われわれがしようとしている仕事の内容を正しく評価し、我々の力量を、われわれの為そうとしていることと比較しなければならない。なぜなら、仕事をする人の力量は、その仕事に必要な力量を、常に上回っていなければならないからだ。運び手の力を超える荷物が、運び手を押しつぶしてしまうのは、当然のことであろう。
ひえー、今年度の仕事が私の力量を超えていないことを、切に祈ります。大丈夫だと思ったから、引き受けたのですが……。
われわれは、心を柔軟にして、自分が決めた計画に、過度に固執しないようにしなければならない。不測の事態が生じて、われわれを取り巻く状況が変化していくのなら、それに身を任せればいいのだ。
私は計画が変わるのが嫌なタイプなので、心に留めておきたいです。
カヌス・ユリウスという人物について、セネカは書いています。この人物、注によれば「ここでの言及以外には知られていない」そうですが、ガイウス帝を怒らせ、死刑を命じられたものの、最後まで心の安定を保った人物として登場します。
これこそが、嵐のただなかにおける心の安定だ。これこそが、永遠の名に値する精神だ。その精神は、みずからの悲運を利用して、真理を証明しようとした。その精神は、生の最後の段階に置かれても、肉体を離れる魂を観察し、しかも、死んでも終わりとはせずに、死そのものからすら、なにかを学ぼうとした。彼ほど長く哲学の探求を続けた人は、だれもいないのだ。
セネカ自身がネロによって同じ運命をたどることを思うと、意味深です。
ローマ市民のうち、古い家柄の金持ちはパトロヌスとなり、貧しい市民たちを保護し、支えました。パトロヌスに保護される貧しい市民がクリエンスです。パトロヌスは、代々、それぞれのクリエンスを持ち、その間には、互恵関係が成立していました。これがクリエンテラと呼ばれる社会制度です。
下層市民の多くは、自分の「親分」ともいうべきパトロヌスの庇護を受けるとともに、その返礼として、さまざまな奉仕をします。そのなかでも重要であったのが、早朝に有力者の家まで出向いて、ごきげん伺いのあいさつ(伺候)をする「サルタチオ」であり、ローマの金持ちの家は、このような下層市民の群れであふれていました。
サルタチオをすると、金銭や食糧の援助などの便宜を図ってもらえたそうです。
・解説 中澤務
セネカが属したストア派について、まず説明しているのですが、これが興味深かったです。
自然的なものを価値あるものとして、それに従おうとしたのです。(中略)
ストア派の哲学によれば、宇宙は、受動的な原理である物質と、そこに内在する能動的な原理であるロゴスからできています。ロゴスとは、宇宙を支配する理性的な力であり、神と同一視されます。そして、その理性的な支配を、ストア派の哲学者たちは運命と呼びました。
この説明に、無為自然を説いた道家の教えとの共通点を感じました。ロゴスは「道」に通じるように思います。
ストア派の哲学者たちは、このような情念に打ち勝った状態を、アパテイア(無情念)と呼び、そのような状態に至ることを人間の理想としました。
アパテイアは、インド哲学でいう涅槃(ニルヴァーナ)でしょうか。悟りを開いた状態というか。
この後中澤さんは改めて作品解説で、個々の作品を振り返っています。復習になって、良いです。
ラテン語の「多忙(オクパツィオ)」は、占領されている状態を意味します(中略)。すなわち、多忙とは、自分の時間が、たくさんの仕事や用事に占領され、それによって、自分の心がそこからはじき出されている状態なのです。
閑暇であるためには、たんに仕事や用事から解放されているだけでは不十分です。解放された自分の時間のなかに、自分の心が戻っていなければなりません。自分の心が戻っているというのは、その時間のなかで、われわれが自分自身と向き合い、自分がほんらいなすべきことをしている状態です。
今年度はオクパツィオになりがちなので、自分の心を戻すよう、心掛けたいと思います。
セネカが考える時間との正しい関わりとは、ひとことでいえば、未来に頼ることをせず、過去ときちんと向き合って、そのうえで、現在という時間に集中して生きることです。
なるほど。
古代ローマの詩人ホラティウスの詩の有名な一節に、「この日を摘み取れ(カルペ・ディエム)」という言葉があります。これは、不確実な明日を頼りにするよりも、今日この日を大切に生きよという意味ですが、セネカの考え方も、これに通じるものがあるといえるでしょう。
カルペ・ディエムは、映画「いまを生きる」のキーワードですね。
読了までにずいぶん時間がかかってしまいましたが、読んで良かったです。アマゾンプライムで光文社古典新訳文庫が読めるのは、大変ありがたいです。
見出し画像は、セネカも見たであろう、ローマのテヴェレ川です。
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