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この戦争は8年前に始まっていた~ウクライナ情勢について考えてみる~

<お断りその1>
この記事は無謀にも現在進行中のことを扱っているため、必要に応じ訂正・追記を行う予定です。現在の情勢についての最終更新は、2022年4月1日です。
なお2022年2月24日の戦争開始後の情勢については、小泉悠さんの『ウクライナ戦争』がとても分かりやすいですし、情報も正確かと思いますので、そちらを読まれることをお勧めします。同書についての私のレビュー記事は、以下の通りです。


<お断りその2>
この記事があまりにも長すぎ(もとは13,000字以上ありました)、我ながら読みにくいなと反省したため、無料公開だった部分を中心に再構成した上で、別記事として数記事に分け、公開することにいたしました。現在工事中ですので、工事終了まではご迷惑をおかけいたしますが、ご了承いただければ幸いです。


2022年の北京五輪も終わりました。北京で五輪大会が開かれるのは、2度目のことです。オリンピックは平和の祭典のはずですが、前回2008年の夏の大会の時は、大会期間中に南オセチア紛争が始まってしまいました。

南オセチア紛争については、以下の記事をご覧ください。


今回も前回の夏季大会同様、大会期間中にロシアがらみの戦争が始まってしまうのかと恐れていましたが、幸いそうはなりませんでした。でも逆に大会が終わったことで、いつ始まってもおかしくないかもと思っていたら、残念ながら2022年2月24日、ウクライナ国内への軍事施設への攻撃が始まってしまいました。せめてパラリンピックが終わるまでは、プーチン大統領も自重するかなと思っていたのですが。


今起きていることを理解していただけるよう、ウクライナとはどういう国か、なぜこのようなことになってしまったのか、そして今後はどのような展開が予想されるか、まとめてみます。

なおこの記事は有料記事ですが、無料公開の部分だけでも、多少参考にしていただけるかと思います。


1.ウクライナについて

この部分は、以下の別記事をご覧ください。


2.ソ連誕生後のウクライナについて

この部分は、以下の別記事をご覧ください。


3.オレンジ革命について

この部分は、以下の別記事をご覧ください。


4.マイダン革命と2014年のウクライナ

2013年11月、ヤヌコヴィッチ大統領はロシアの圧力で、EU(ヨーロッパ連合)加盟への道を開く連合協定への署名を取りやめました。結果、親EUの西部の人を中心に、首都キエフで反政府デモが起き、デモ隊と治安部隊の衝突で80人以上が死亡する事態となりました。ここから翌年にかけての政権が打倒されるまでの一連の動きを、マイダン革命(尊厳の革命)といいます。主な舞台がキエフのマイダン広場だったことから付いた名称です。


なお、ヤヌコヴィッチが連合協定への署名を取りやめた理由として、ロシアの圧力以外に、ヤヌコヴィッチの言い分によれば、EUがウクライナに突きつけた条件がウクライナにとって不利なものだったということもあったようです。


2014年2月、政権が倒れ、西部出身のヤツェニュクを首相とする暫定政権が発足します。ヤヌコヴィッチは、事実上ロシアに亡命することとなりました。



3月、ウクライナ南部のクリミア自治共和国とセバストポリ特別市で、ロシアへの編入を問う住民投票が行われました。96%以上が賛成したのを受け、2日後にロシアは編入を宣言します。

これはロシア軍が「電撃的な侵攻で現地のウクライナ部隊を武装解除し、いったん『クリミア共和国』として独立宣言させた後、住民投票の結果と主張して併合」するやり方で行われました(『東京新聞』、2022年2月23日、12版、2面、「プーチン氏 ウクライナの親ロ地域独立承認」)。

ウクライナ地図20220226
ウクライナ地図

*この地図は「旅行のとも、ZenTech」さんの地図をもとに作成しました。


ここでなぜ突然クリミアが出てきたかというと、クリミアは人口の約6割がロシア系なのです。ウクライナにありながら、ロシアの黒海艦隊の基地がセバストポリにあるためロシア領だったのですが、1954年にウクライナ出身のフルシチョフの決定で、ウクライナ領になりました。ちなみにヤヌコヴィッチ政権は、2042年までの黒海艦隊の駐留を認めていました。



ともあれ編入が住民投票の結果なら、仕方がないと思われるかもしれませんが、問題はこれが「ブダペスト覚書」に違反していることです。「ブダペスト覚書」ではロシアはイギリス・アメリカと共にウクライナの安全保障と領土保全を確約していたにも関わらず、自らそれに反する行いをしたわけです。「ブダペスト覚書」については、改めて以下の記事をご覧ください。


かつもう1つ問題なのは、人口の約1割を占めるクリミアの先住民族のクリミア・タタール人は、ウクライナへの残留を望んでいたことです。彼らの多くはスンニ派のイスラーム教徒ですが、ソ連時代、スターリンにより中央アジアに強制移住させられた歴史を抱えているため、ロシアへの警戒心が強いのです。

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