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オレンジ革命について

*この記事は、公開済みの「この戦争は8年前に始まっていた~ウクライナ情勢について考えてみる~」の一部です。有料記事である同記事があまりにも長すぎ、我ながら読みにくいなと反省したため、無料公開だった部分を中心に再構成した上で、別記事として数記事に分け、公開することにいたしました。


1.ソ連崩壊後のウクライナ

1991年、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの指導者たちによる「ペロヴェーシ合意」で、ソヴィエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連)が崩壊します。「ペロヴェーシ合意」とは、ソ連がその存在を終えることを確定する文書で、それへの調印が行われたのです。

なおソ連崩壊に際しては、「ブダペスト覚書」も交わされました。「ブダペスト覚書」とは、ソ連崩壊に伴ないウクライナが持つことになった大量の核兵器(当時世界で三番目)を放棄する代わりに、イギリス・アメリカ・ロシアがウクライナの安全保障と領土保全を確約したものです。ウクライナは核兵器を安全に保管する能力に不安があったため、核兵器がテロリスト等の手に渡ることを防ぐためです。この「ブダペスト覚書」が後の2014年、重い意味を持つことになります。

ソ連は崩壊したものの、すぐにソ連を構成した国々のうちバルト三国を除いた国々で、CIS(独立国家共同体)が結成されました。ソ連からの独立の道は選んだものの、いきなりソ連から離れて独り立ちすることには、どの国も不安があったとでも言えば良いんでしょうか。

CISは「国」ではなく、経済的・軍事的な協力関係を持つ、まさに独立した国々の共同体です。主導権を握ったのはロシアですが、次第に各国の間で利害の不一致が生じてきます。


2.オレンジ革命

ウクライナについては、まず2004年のオレンジ革命が大きな転機となりました。11月の大統領選挙において、東部出身で親ロシアのヤヌコヴィッチと、西部が支持基盤でヨーロッパとの関係を重視するユシチェンコの一騎打ちとなり、ヤヌコヴィッチが勝利しました。しかしユシチェンコ陣営が、選挙に不正があったと訴えたのです。不正の解明と再選挙を求め、デモやゼネストなどの抗議活動を行った人々のシンボルカラーがオレンジ色だったため、オレンジ革命と言います。

当然ロシアはヤヌコヴィッチ陣営を支持し、対してEU(ヨーロッパ連合)やアメリカ合衆国はユシチェンコ陣営の抗議活動を支持しました。結果、12月末に選挙のやり直しが行われ、ユシチェンコ大統領が誕生することになります。

しかし結局、ユシチェンコ政権内部で内輪もめが起きて国民の支持を失い、2010年の大統領選挙の結果、ヤヌコヴィッチが大統領となりました。つまりウクライナは、親ロシアに傾くことになります。


見出し画像には、「みんなのフォトギャラリー」から、オレンジのバラの写真をお借りいたしました。

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