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ウクライナについて

*この記事は、公開済みの「この戦争は8年前に始まっていた~ウクライナ情勢について考えてみる~」の一部です。有料記事である同記事があまりにも長すぎ、我ながら読みにくいなと反省したため、無料公開だった部分を中心に再構成した上で、別記事として数記事に分け、公開することにいたしました。


1.ウクライナの位置

まずはウクライナの位置です。

ウクライナ周辺地図

*この地図は、「旅行のとも、ZenTech」さんの地図をもとに作成しました。


2.ウクライナ人について

ウクライナ人はロシア人やベラルーシ人と同じ、東スラヴ人に分類されます。ロシアの原点は862年にノルマン人のリューリクが作ったノヴゴロド国で、その地の東スラヴ人はノヴゴロド国の支配下に入りました。なおノルマン人のことをスラヴ人は「ルーシ(ルス)」と呼んでおり、それが「ロシア」の語源となりました。ノヴゴロド国は、じきにキエフ公国(別名キエフ・ルーシ)の支配下に入ります。

<注>
2022年3月31日、日本政府はウクライナ政府の要請に従い、ロシア語由来の「キエフ」ではなく、ウクライナ語の「キーウ」と呼称を変えることを決定しました。しかしこの記事では原則として、歴史的な名称である「キエフ」を用います。


キエフ公国は、リューリクの息子イーゴリがノヴゴロド国から分かれて作った国で、今のウクライナの首都であるキエフを中心とします。ノルマン色は濃くなく、やがて現地の東スラヴ人と同化していきました。つまりキエフというかウクライナの地は、一部のロシア人にとって心のふるさと、ひょっとしたらロシアの一部とさえ思っている場所であることを覚えておいてください。ロシアのプーチン大統領が2021年7月に発表した論文「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」も、そのような視点から書かれています。


13世紀になるとキエフ公国は、モンゴル人バトゥのヨーロッパ遠征の結果、バトゥが作ったキプチャク=ハン国の支配下に入ります。これを「タタールのくびき」と言います。ちなみにバトゥはチンギス=ハンの孫、フビライ=ハンの従兄弟にあたります。

なおモンゴルについては、以下の記事で触れています。


バトゥの支配下で、1271年にモスクワ公国が成立しました。1328年にキプチャク=ハン国から大公位を認められ、モスクワ大公国に昇格します。その後キプチャク=ハン国から自立し、1480年にロシアを統一しました。これがロシア帝国のもととなります。


ウクライナ人(小ロシア人ともいう)とロシア人が分かれたのは、14世紀から15世紀にかけてのことのようです。実教出版の『五訂 必携世界史用語』によれば、「14世紀後半以降ポーランドの支配下でロシア人から分化しはじめ、17世紀なかごろまでにウクライナ語、ベラルーシ語(白ロシア語)、ロシア語の差は決定的となった」とあります。


3.東西で異なるウクライナ

ウクライナの地は、ポーランド王国とロシア帝国に挟まれており、14世紀以来、両国による争奪の対象となりました。その結果、ウクライナの西半分はポーランドの支配下、東半分はロシアの支配下に入り、それぞれ両国の影響を強く受けることになります。


ちょうどウクライナの中央部にはドニエプル川(ウクライナ語ではドニプロ川)が流れているのですが、大雑把に言って川を挟んで西はウクライナ語話者が多く、カトリックの影響が強い、対して東側はロシア語話者が多く、ロシア正教の影響が強い、と思ってください。なおキエフはドニエプル川の中流域にあり、両岸にまたがっています。

ウクライナの地図

*この地図は「旅行のとも、ZenTech」さんの地図をもとに作成しました。


1793年の第2回ポーランド分割と1795年の第3回ポーランド分割を経て、今のウクライナの西半分もロシアの支配下に入りました。1917年のロシア革命後、ウクライナとして独立しますが、1922年にロシア、ベラルーシ、ザカフカース(今のジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン)と共に、ソヴィエト社会主義共和国連邦を結成します(連邦はその後拡大)。


この後、ウクライナを大きな悲劇が襲いますが、その話は次回といたします。


見出し画像には、「みんなのフォトギャラリー」で「小麦畑」で検索して出てきた画像をお借りいたしました。

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