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【読書】誤解されてきたマルクスさん~『人新世の『資本論』』(斎藤幸平)~

本書はエコバッグやマイボトル「だけなら無意味に終わる。それどころか、その善意は有害でさえある」という、衝撃的な書き出しから始まります。もちろんエコバッグやマイボトル自体が無意味と言っているわけではなく、「温暖化対策をしていると思い込むことで、真に必要とされているもっと大胆なアクションを起こさなくなってしま」い、「資本の側が環境配慮を装って私たちを欺くグリーン・ウォッシュにいとも簡単に取り込まれてしまう」からです。

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読み進めるほどに暗い気持ちになってくる本書ですが、かといって読むのをやめることは、人類が置かれている現状の、のっぴきならなさから目を背ける行為だと思いました。


以下、備忘録代わりに印象に残ったところを抜き書きしておきます。


人新生(ひとしんせい):人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代。

p.4

あるいは「おわりに」では、「資本主義が生み出した人工物、つまり負荷や矛盾が地球を覆った時代」(p.364)と書かれています。


グローバル・サウスとは、グローバル化によって被害を受ける領域ならびにその住民を指す。グローバル・サウスの抱える問題は、以前なら「南北問題」と呼ばれていた事態だ。ただ、新興国の台頭や、先進国への移民増大によって、「南北」格差は地理的位置との関係が必然ではなくなりつつある。そのため、本書では、グローバル・サウスという言葉を使いたい。

p.25~26


ドイツの社会学者ウルリッヒ・ブラントとマルクス・ヴィッセンは、グローバル・サウスからの資源やエネルギーの収奪に基づいた先進国のライフスタイルを「帝国的生活様式」(imperiale Lebensweise)と呼んでいる。
帝国的生活様式とは要するに、グローバル・ノースにおける大量生産・大量消費型の社会のことだ。(中略)その裏では、グローバル・サウスの地域や社会集団から収奪し、さらには私たちの豊かな生活の代償を押しつける構造が存在するのである。 
問題は、このような収奪や代償の転嫁なしには、帝国的生活様式は維持できないということだ。グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化は、資本主義の前提条件であり、南北の支配従属関係は、例外的事態ではなく、平常運転なのである。(中略)
ここでの悲劇は、帝国的生活様式による生産と消費に依存しているグローバル・サウスも、グローバル資本主義の構造的理由から、この平常運転に依存せざるを得ないことにある。

p.27~29

福島の人たちが原発労働に依存せざるを得ないこと、沖縄の人たちが基地経済に依存せざるを得ないことを想起させます。帝国的生活様式とは、言葉を換えれば犠牲のシステムのことでしょう。


ミュンヘン大学の社会学者シュテファン・レーセニッヒは、このようにして、代償を遠くに転嫁して、不可視化してしまうことが、先進国社会の「豊かさ」には不可欠だと指摘する。これを「外部化社会」と彼は呼び、批判するのだ。(中略)
「外部化社会」は、絶えず外部性を作り出し、そこにさまざまな負担を転嫁してきた。

p.30


資本主義による収奪の対象は周辺部の労働力だけでなく、地球環境全体なのだ。資源、エネルギー、食料も先進国との「不等価交換」によってグローバル・サウスから奪われていくのである。人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる略奪の対象とみなす。

p.31~32


環境危機が引き起こす被害に、地球上の人々がみな等しく苦しむわけではない。食料やエネルギーや原料の生産・消費に結びついた環境負荷は不平等に分配されているのだ。
「外部化社会」として先進国を糾弾するレーセニッヒによれば、このように「どこか遠く」の人々や自然環境に負荷を転嫁し、その真の費用を不払いにすることこそが、私たちの豊かな生活の前提条件なのである。

p.33


当時NASA(米航空宇宙局)の研究者であったジェームズ・ハンセンが「九九%の確率で」気候変動が人為的に引き起こされていると米議会で警告したのは、一九八八年のことだった。さらに、同年にはIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が、UNEP(国連環境計画)とWMO(世界気象機関)によって設立された。
ここには、気候変動対策の国際協定締結に向けた希望があった。そして、もしそのころから対策を始めていれば、二酸化炭素の排出量を年三%くらいのペースでゆっくり減らしていく形で、気候変動問題は、十分解決可能だっただろう。
ところが、ハンセンの警告はタイミングがまずかった。直後にベルリンの壁が崩壊し、さらにはソ連が崩壊したことで、アメリカ型の新自由主義が世界を覆うことになったのである。旧ソ連圏に廉価な労働力や市場を見出した資本主義は新たなフロンティアを切り拓いていったのだ。
だが、経済活動がますます拡大することで、資源の浪費は加速していった。例えば、人類が使用した化石燃料のなんと約半分が、冷戦が終結した一九八九年以降のものなのである。

p.39~40

「もしも」と言っても詮無いかもしれませんが、ハンセンの警告がもう少し早ければと思ってしまいます。もちろん、冷戦が続いていればとは、微塵も思いませんが。


資本主義が発展して、都市と農村のあいだで分業が進むと、農村で収穫された穀物は、都市の労働者向けに販売されるようになっていく。そうすると、都市で消費される穀物に吸収された土壌養分は、もはや元の土壌に戻ってくることがない。都市の労働者たちが摂取し、消化した後は水洗トイレで河川に流されてしまうからだ。

p.43~44

江戸の住民の排せつ物が、下肥として農作物の栽培に使われるという循環は、理にかなっていたのですね。現代的に衛生的な形で、そのような仕組みを復活できないものかと思ってしまいます。

なお「ビッグイシュー日本版」の2022年10月1日号でも、「うんち」について取り上げています。


南米チリでは、欧米人の「ヘルシーな食生活」のため、つまり帝国的生活様式のために、輸出向けのアボカドを栽培してきた。「森のバター」とも呼ばれるアボカドの栽培には多量の水が必要となる。また、土壌の養分を食いつくすため、一度アボカドを生産すると、ほかの種類の果物などの栽培は困難になってしまう。チリは自分たちの生活用水や食料生産を犠牲にしてきたのである。
そのチリを大干ばつが襲い、深刻な水不足を招いている。これには気候変動が影響しているといわれている。(中略)そこに、新型コロナウイルスによるパンデミックが追い打ちをかけた。ところが、大干ばつでますます希少となった水は、コロナ対策として手洗いに使われるのではなく、輸出用のアボカド栽培に使われている。水道が民営化されているせいである。

p.50~51

水道の民営化の問題が、ここでからんでくるとは。

なおこの号には、あとで引用する「フィアレス・シティ」の話も載っています。


外部化や転嫁が困難になると、最終的に、そのツケは、自分たちのところへと戻ってくる。これまで、海に流れて見えなくなっていたプラスチックごみは、マイクロ・プラスチックとして、魚介類や水などのなかに混じって、私たちの生活に舞い戻ってきている。実際、私たちは毎週クレジットカード一枚分のプラスチックを食べているといわれている。

p.53

星新一の「おーい でてこーい」を思い起こします。底なし穴にどんどんゴミを捨てていたら、ある日空から……という話。『ボッコちゃん』に収録されています。


効率化で節約された分の資本や収入が、エネルギーや資源をよりたくさん消費する商品の生産や購買に使われ、節約分が帳消しになることもある。家庭用太陽光パネルが廉価になって浮いたお金で、人々は飛行機に乗って旅に出るかもしれない。

p.78

脱力してしまいますが、事実でしょうね。これを「ジェヴォンズのパラドックス」というそうです。19世紀のイギリスで、「技術進歩によって石炭をより効率的に利用できるようになっ」たにも関わらず、「それで石炭の使用量が減ることはな」く、「むしろ、石炭の低廉化によって、それまで以上に、さまざまな部門で石炭が使われるようになり、消費量が増加していった」ように、「効率化すれば環境負荷が減るという一般的な想定とは異なり、技術進歩が環境負荷を増やしてしまうこと」を指します(p.75より)。


私たち自身が、当事者として、帝国的生活様式を抜本的に変えていかなければ、気候危機に立ち向かうことなど不可能なのである。

p.82

シンプルながら、真実ですよね。「誰か」が何とかしてくれるという、救世主願望を持つことは、もはや許されません。


そして斎藤さんは言いきります。

脱成長資本主義は(中略)実現不可能な空想主義なのだ。

p.136


資本主義が限界なら、じゃあ、これから人類はどうすればいいのか。晩年のマルクスが主張したことに、注目しようじゃないかということになります。


マルクスにとっても「コミュニズム」とは、ソ連のような一党独裁と国営化の体制を指すものではなかった。彼にとっての「コミュニズム」とは、生産者たちが生産手段を<コモン>(引用者注。社会全体にとって共通の財産)として、共同で管理・運営する社会のことだったのだ。
さらに、マルクスは、人々が生産手段だけでなく地球をも<コモン>(common)として管理する社会を、コミュニズム( communism)として、構想していたのである。

p.142~143

これで一気に共産主義(communism)のイメージが変わります。正直、前半は読むのが少々苦痛だった本書ですが、これが出てくる真ん中あたりから、俄然面白くなり、読むスピードが増しました。


コミュニズムとは、知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されてしまった<コモン>を意識的に再建する試みにほかならない。
あまり一般には知られていないことだが、マルクスは<コモン>が再建された社会を「アソシエーション」と呼んでいた。マルクスは将来社会を描く際に、「共産主義」や「社会主義」という表現をほとんど使っていない。代わりに使っていたのが、この「アソシエーション」という用語なのである。労働者たちの自発的な相互扶助(アソシエーション)が<コモン>を実現するというわけだ。

p.144~145


『共産党宣言』と『資本論』の間に約20年の時が経ち、その間にマルクスの考えが変わっていったこと、ましてや『資本論』の後、更に発展を遂げたことは、まったく知りませんでした。

『資本論』第一巻は本人の筆によって完成し、一八六七年に刊行されたものの、第二巻、第三巻の原稿執筆は未完で終わってしまったからだ。現在読まれている『資本論』の第二巻、第三巻は、盟友エンゲルスがマルクスの没後に遺稿を整理し、出版したものにすぎない。そのため、マルクスとエンゲルスの見解の相違から、編集過程で、晩年のマルクスの考えていたことが歪められ、見えにくくなっている箇所も少なくない。

p.151

マルクスさん、長年誤解されていたのかもしれません。


一八六八年以降、マルクスは自然科学やエコロジーの研究に取り組むようになっただけでなく、非西欧や資本主義以前の共同体社会の研究にも大きなエネルギーを割くようになっていったのだ。

p.171


「マルク協同体」とは、皇帝カエサルからタキトゥスの時代のゲルマン民族社会を広く指す呼称である。(中略)ゲルマン民族は土地を共同で所有し、生産方法にも強い規制をかけていた。マルク協同体においては、土地を協同体の構成員以外に売ったりするなど、もってのほかであったという。土地の売買だけでなく、木材、豚、ワインなども協同体の外に出すことも禁じられていた。
そのような強い共同体的規制によって、土壌養分の循環は維持され、持続可能な農業が実現していた。そして長期的には、地力の上昇さえももたらしていたというのである。(中略)
マルク協同体は、全員が等しく放牧などができるように共有地を用意していただけではない。構成員たちがどの土地を使うかについて、くじ引きを導入して定期的な入れ替えを行っていた。そうすることで、肥沃な土地の恩恵を一部の人間が独占的に占有し、富の偏在が生じることがないように注意していたのである。(中略)
ゲルマン民族は、土地を共有物として扱っていた。土地は、誰のものでもなかったのだ。だから、自然からの恩恵によって、一部の人が得をしないよう、平等な土地の割り振りを行っていた。富の独占を防ぐことで、構成員のあいだに支配・従属関係が生じないように注意していたのだ。
同時に、土地は誰のものでもなかったがゆえに、所有者による好き勝手な濫用から守られていた。そのことが、土地の持続可能性を担保することにもなっていたのである。
このように「持続可能性」と「社会的平等」は密接に関係している。この両者の密接な関係こそが、共同体が資本主義に抗い、コミュニズムを打ち立てることを可能にするのではないか。マルクスはこの可能性を強く意識するようになっていく。

p.181~184

長い引用になりましたが、ゲルマン民族、すごいシステムを持っていたのですね。これが中世の入会地や、スウェーデンの自然享受権につながっていくのでしょうか。


持続可能性と平等こそ、西欧近代社会が資本主義の危機を乗り越えるために、意識的に取り戻さなくてはならないものであり、その物質的条件が、定常型経済なのである。

p.195


消費者意識のレベルの変化では、成長を目指し続ける商品経済に、いとも簡単に吞み込まれてしまうのである。
このように吞み込まれることを、マルクスの概念を使って言い換えると、「包摂」という。私たちの生活は資本によって「包摂」され、無力になっている。(中略)
資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力に頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。

p.221

祖父母の世代より親世代、親世代より私たち、そして私たちより子どもたちの世代と、世代を追うごとに、まさに「技術や自律性を奪われ」ていますよね。まさに「生きる力」を失っていっています。


今や労働者たちは資本のもとで働くことでしか、自らの労働を実現できない。こうして、自律性を奪われた労働者は機械の「付属品」になっていく。

p.223

そしてAIに支配されるようになっていくのでしょうか。


原子力発電はセキュリティ上の問題から、一般の人々から隔離され、その情報も秘密裏に管理されなくてはならない。そのことが隠蔽体質につながり、重大な事故を招いてしまう。
原子力を民主的に管理するのは無理である。「閉鎖的技術」はその性質からして、民主主義的な管理には馴染まず、中央集権的なトップダウン型の政治を要請する。このように、技術と政治は無関係ではない。特定の技術は、特定の政治的形態と結びついているのである。

p.227

原発の問題点を、こういう形で指摘した文章は初めてでしたが、非常に納得がいきました。


技術というイデオロギーこそが、現代社会に蔓延する想像力の貧困の一因といえる。私たちは、もう一度、別の社会を思い描けるようになるために、資本の包摂に抗い、想像力を取り戻さなくてはならない。マルクスの「脱成長コミュニズム」はそのような想像力の源泉なのである。

p.229~230


(囲い込みで)生活手段を失った人々は、多くは都市に流れ、賃労働者として働くよう強いられた。低い賃金のため、(中略)高価な肉や野菜は手に入らない。食材の品質は低下し、入手できる品の種類も減っていく。時間も金もないので、伝統的な料理レシピは役立たずのものとなり、ジャガイモをただ茹でたり、焼いたりする料理ばかりになっていったというわけだ。生活の質は明らかに落ちたのである。

p.239

現代の貧困家庭の食卓の問題に通じるものがありますね。


資本主義とは、人々があらゆるものを自由に市場で売買できる社会である。土地を追われた人々は生きるための手段を失い、自分の労働力を売ることで貨幣を獲得し、市場で生活手段を購買しなければならなくなった。そうなれば、商品経済は一気に発展を遂げることになる。こうして資本主義が離陸するための条件が整ったのだ。

p.239


ローダデールに言わせれば、「私富」の増大は、貨幣で測れる「国富」を増やすが、真の意味での国民にとっての富である「公富」=コモンズの減少をもたらす。そして、国民は、生活に必要なものを利用する権利を失い、困窮していく。「国富」は増えても、国民の生活はむしろ貧しくなる。

p.245~246


二〇一九年にデンマークのコペンハーゲンは、誰もが無料で食べてよい、「公共の果樹」を市内に植えることを決めた。今後、市全体が都市果樹園(エディブル・シティ)になるのだ。これは、現代版の入会地であり、「コモンズの復権」といっていい。資本主義の論理とは相容れない、ラディカルな潤沢さがここにはある。

p.294~295

この試み、ちょっと面白いです。でも面白いだけではなく、これが「資本の支配に亀裂を入れる」可能性があると、斎藤さんは指摘します。


現在、ケア労働者に代表されるエッセンシャル・ワーカーは、役に立つ、やりがいのある労働をしているという理由で、低賃金・長時間労働を強いられている。まさに、やりがいの搾取だ。

p.316~317

教育関係者もエッセンシャル・ワーカーだとすれば、これ、本当に心から頷けます。


晩年のマルクスが提唱していたのは、生産を「使用価値」重視のものに切り替え、無駄な「価値」の創出につながる生産を減らして、労働時間を短縮することであった。労働者の創造性を奪う分業も減らしていく。それと同時に進めるべきなのが、生産過程の民主化だ。労働者は、生産にまつわる意思決定を民主的に行う。

p.319~320


「フィアレス・シティ」とは、国家が押しつける新自由主義的な政策に反旗を翻す革新的な地方公共団体を指す。国家に対しても、グローバル企業に対しても恐れずに、住民のために行動することを目指す都市だ。

p.328

そういう都市に住みたいし、住みたいと願うだけではなく、自分が住むところがそうなるよう、多少なりとも行動したいです。


国境を越えて連帯する、革新自治体のネットワークの精神は「ミュニシパリズム」と呼ばれている。

p.338


意味(引用者注:働くことの意味、生きることの意味、自由や平等の意味)を根本から問い直し、今、「常識」とみなされているものを転覆していく。この瞬間にこそ、既存の枠組みを超えていくような、真に「政治的なもの」が顕在化する。それこそが、「資本主義の超克」、「民主主義の刷新」、「社会の脱炭素化」という、三位一体のプロジェクトだ。

p.236~237


ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「三・五%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである。
フィリピンのマルコス独裁を打倒した「ピープルパワー革命」(一九八六年)、大棟梁のエドアルド・シェワルナゼを辞任に追い込んだグルジアの「バラ革命」(二〇〇三年)は、「三・五%」の非暴力的な市民不服従がもたらした社会変革の、ほんの一例だ。

p.362


あくまで「非暴力的な」ものでなければいけませんよね。気候危機に人々の関心を向けようとして、名画にスープをかけるような行動とは違うわけです。


すぐにやれること・やらなくてはならないことはいくらでもある。だから、システムの変革という課題が大きいことを、なにもしないことの言い訳にしえはいけない。一人ひとりの参加が三・五%にとっては決定的に重要なのだから。

p.363


内容が濃く、また目から鱗のことも多かったため、理解が追い付いていないので、引き続き考えつつ、やれることはやっていこうと思います。


見出し画像はフィアレス・シティの代表である、バルセロナのサグラダファミリア(2016年当時)です。


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