本書はエコバッグやマイボトル「だけなら無意味に終わる。それどころか、その善意は有害でさえある」という、衝撃的な書き出しから始まります。もちろんエコバッグやマイボトル自体が無意味と言っているわけではなく、「温暖化対策をしていると思い込むことで、真に必要とされているもっと大胆なアクションを起こさなくなってしま」い、「資本の側が環境配慮を装って私たちを欺くグリーン・ウォッシュにいとも簡単に取り込まれてしまう」からです。
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読み進めるほどに暗い気持ちになってくる本書ですが、かといって読むのをやめることは、人類が置かれている現状の、のっぴきならなさから目を背ける行為だと思いました。
以下、備忘録代わりに印象に残ったところを抜き書きしておきます。
あるいは「おわりに」では、「資本主義が生み出した人工物、つまり負荷や矛盾が地球を覆った時代」(p.364)と書かれています。
福島の人たちが原発労働に依存せざるを得ないこと、沖縄の人たちが基地経済に依存せざるを得ないことを想起させます。帝国的生活様式とは、言葉を換えれば犠牲のシステムのことでしょう。
「もしも」と言っても詮無いかもしれませんが、ハンセンの警告がもう少し早ければと思ってしまいます。もちろん、冷戦が続いていればとは、微塵も思いませんが。
江戸の住民の排せつ物が、下肥として農作物の栽培に使われるという循環は、理にかなっていたのですね。現代的に衛生的な形で、そのような仕組みを復活できないものかと思ってしまいます。
なお「ビッグイシュー日本版」の2022年10月1日号でも、「うんち」について取り上げています。
水道の民営化の問題が、ここでからんでくるとは。
なおこの号には、あとで引用する「フィアレス・シティ」の話も載っています。
星新一の「おーい でてこーい」を思い起こします。底なし穴にどんどんゴミを捨てていたら、ある日空から……という話。『ボッコちゃん』に収録されています。
脱力してしまいますが、事実でしょうね。これを「ジェヴォンズのパラドックス」というそうです。19世紀のイギリスで、「技術進歩によって石炭をより効率的に利用できるようになっ」たにも関わらず、「それで石炭の使用量が減ることはな」く、「むしろ、石炭の低廉化によって、それまで以上に、さまざまな部門で石炭が使われるようになり、消費量が増加していった」ように、「効率化すれば環境負荷が減るという一般的な想定とは異なり、技術進歩が環境負荷を増やしてしまうこと」を指します(p.75より)。
シンプルながら、真実ですよね。「誰か」が何とかしてくれるという、救世主願望を持つことは、もはや許されません。
そして斎藤さんは言いきります。
資本主義が限界なら、じゃあ、これから人類はどうすればいいのか。晩年のマルクスが主張したことに、注目しようじゃないかということになります。
これで一気に共産主義(communism)のイメージが変わります。正直、前半は読むのが少々苦痛だった本書ですが、これが出てくる真ん中あたりから、俄然面白くなり、読むスピードが増しました。
『共産党宣言』と『資本論』の間に約20年の時が経ち、その間にマルクスの考えが変わっていったこと、ましてや『資本論』の後、更に発展を遂げたことは、まったく知りませんでした。
マルクスさん、長年誤解されていたのかもしれません。
長い引用になりましたが、ゲルマン民族、すごいシステムを持っていたのですね。これが中世の入会地や、スウェーデンの自然享受権につながっていくのでしょうか。
祖父母の世代より親世代、親世代より私たち、そして私たちより子どもたちの世代と、世代を追うごとに、まさに「技術や自律性を奪われ」ていますよね。まさに「生きる力」を失っていっています。
そしてAIに支配されるようになっていくのでしょうか。
原発の問題点を、こういう形で指摘した文章は初めてでしたが、非常に納得がいきました。
現代の貧困家庭の食卓の問題に通じるものがありますね。
この試み、ちょっと面白いです。でも面白いだけではなく、これが「資本の支配に亀裂を入れる」可能性があると、斎藤さんは指摘します。
教育関係者もエッセンシャル・ワーカーだとすれば、これ、本当に心から頷けます。
そういう都市に住みたいし、住みたいと願うだけではなく、自分が住むところがそうなるよう、多少なりとも行動したいです。
あくまで「非暴力的な」ものでなければいけませんよね。気候危機に人々の関心を向けようとして、名画にスープをかけるような行動とは違うわけです。
内容が濃く、また目から鱗のことも多かったため、理解が追い付いていないので、引き続き考えつつ、やれることはやっていこうと思います。
見出し画像はフィアレス・シティの代表である、バルセロナのサグラダファミリア(2016年当時)です。
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