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抹香臭い茂兵衛~『伊賀越仁義 三河雑兵心得(七)』(井原忠政)~

題名通り、今巻の主題は家康の伊賀越えです。ちょうど「どうする家康」でも伊賀越えの回を観たばかりなので、取ったルートや解釈の違いが面白かったです。

↑kindle版


「自分では分からんが、坊主か医者に向いておるらしい」

p.69

1巻冒頭では喧嘩で人を殺してしまった茂兵衛が、こんな風に言われるようになるとは……。


意地悪な皮肉を投げて、無垢な若者を傷つけるのは、仏の道にも人の道にも外れよう。

p.87

この直後にあるように、「抹香臭いことを考え」るようになった茂兵衛ですが、この「無垢な若者」というのは、例のごとく本多平八郎から体よく押し付けられた少年です。でもその子に褒めて伸ばす教育を与える茂兵衛は、相変わらず教育者向きでもあります。


茂兵衛は、この怪我人と、阿呆な少年と、信用の置けない配下を連れて、危険な土地を往くのが、心底から不安だったのである。
「おまんら、すまんが前を歩いてくれんか。俺ァ後ろから行くわ」
(中略)さしたる理由があるわけではなかった。後ろから刺される心配をしたわけでもない。只々疲労困憊してフラフラと歩く姿を、有泉や左馬之助に見られたくなかっただけだ。足軽大将の威厳として疲れた姿を見せるのは如何なものか、と感じた――それだけだ。

p.95

この段階で16時間以上歩き詰めの茂兵衛には気の毒ですが、このくだり、何だかおかしかったです。心身共にフラフラなのに、それでも威厳を気にするとは……。


(適材適所、ここで駄目でも他で役立つやも知れねェ。かく言う俺だって同じだァ。あのまま植田村で百姓を続けていたら、「嫌われ者の茂兵衛」として生涯を孤独に過ごすところだった。阿呆の花井も、どこでどう大化けするやら分からんからなァ)

p.96

人にはそれぞれ活躍できる場があり、その場さえ見つかれば、活躍できるということでしょう。花井くんも、とりあえず素直なのは確かなので、どこかで大化けできるかもしれません。


本邦においては、天平宝字元年、(七五七)施行の養老律令に、トリカブトを用いた殺人、トリカブトを売却した者への重罰規定が見え、古来より対人武器として毒を用いることは禁忌とされてきた。血なまぐさい戦国の世にあっても、戦で毒を用いた例は極めて希である。苟も武士たる者、毒を得物としない不文律、あるいは矜持のようなものがあったのかも知れない。

p.148

これ、ちょっと興味深いです。


(俺もよォ、もしこんな土地に生まれ育ったら、あの山を越えて「他国に出たい」「海が見たい」と夢見たろうなァ)
と、茂兵衛は思った。
この二十年間、信玄と武田勢が、駿河や遠江への侵攻に固執し続けた理由が、ようやく分かったような気がした。ただ、武田家は長篠を経て衰亡し、三ヶ月前に滅亡した。今やその遺臣たちが糾合できるのは、子供と老人だけなのだ。そこまで国と民を疲弊させてまで、実現させる価値のある望みだったのだろうか。
(人間、夢を見るのもええが無理はいけねェ。足元を見て歩かにゃ危ネェわ。信玄さんにも、勝頼さんにも、ナンマンダブだがね)
と、茂兵衛は心中で合掌し、幾度か称名した。

p.239

相変わらず抹香臭い茂兵衛ですが、内陸の国が海を目指す思いが、私も分かった気がしました。しかし武田家滅亡から三ヶ月後に本能寺の変が起きていると思うと、その展開の速さにはびっくりです。


(俺が見たかったのは、つまり、こういう景色だったんだろうなァ)
まるで美しい風景画でも愛でるように、茂兵衛は櫓の上の光景をうっとりと眺め続けた。
三ヶ月ほど前、寝所の闇の中で綾女が呟いた言葉をふと思い出した。
「共に笑い、共に泣く生の暮らしの前では、古びた恩讐など馬鹿らしく思えて参ります」

p.240

「こういう景色」がどういうものかは、ネタバレになるので書けませんが、本当にささやか、かつ貴重な景色です。


しかしまぁこの巻も、前巻に引き続き「走りずくめ、戦いずくめの日々」(p.239~240)で、読んでいるこちらも疲れました。そんな中、第三章終わりの「あの人」との対決シーンは、真剣ながら、ある意味おかしかったです。その対決の果てに、以下の感想を持ってしまう茂兵衛は、やはり抹香臭いです。

こんな男と朋輩になることはないし、できれば顔も見たくない。ただ、阿弥陀はどんな悪人にも慈悲を垂れ、当人が「嫌だ」と逃げても追いかけまわして「結局は救ってしまう」と、どこぞの坊主が言っていた。その法話の意味が少しだけ分かった気がした。

p.262


見出し画像は、浜松城の天守閣です。


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