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【読書】有能な者は酷使される~『鉄砲大将仁義 三河雑兵心得(陸)』(井原忠政)~

茂兵衛はついに、百人を率いる鉄砲大将となりました。足軽だった頃を思うと、隔年の感があります。

↑kindle版


有能な者は優遇される半面、酷使されるのが戦国の――否々、組織の常だ。

p.12

まさに有能さが認められればこそ、今巻では茂兵衛は酷使されまくります。茂兵衛なら潰れる心配はないでしょうけど、現代人なら「有能な者は酷使する」を実践すると、潰れてしまいそうです。


信長の朝廷工作により朝敵とされ、織田の大軍に攻め込まれた上での自然災害――大噴火の瞬間、勝頼の命運は完全に尽きたのではあるまいか。

p.108

武田家滅亡の直前、浅間山が噴火したそうです。「国衆や地侍たちは、領地の復興に気がいって」(p.90)しまい、武田家のことどころではなくなるわけで、勝頼はまさに天運が尽きた状態だったわけですね。


真面目で辛抱強いだけが取り柄の田舎大名が、欲と二人連れで「腹黒い狸親父」へと変貌を遂げたのかも知れない。
(ただよォ、殿様が腹黒くなるのは、ま、仕方ねェことかも知れねェな)
(中略)
「ええ人は戦国の世では生き残れん」
(中略)
主人が腹黒い――ふつうは不幸な話だが、乱世にあっては例外で、むしろ歓迎すべきことではないのか。
かく言う茂兵衛自身、物頭となって以来、気働きや悪知恵を度々用いるようになった。(中略)百人の難しい配下たちを統べるのだから、綺麗事ばかり言ってはいられない。怒鳴ったり、宥めたり、賺したり――相当あくどい手段だって使っているのだ。
(足軽の頃はもう少し簡単だった。小頭の命令だけ聞いて、その内の八割か七割をやり遂げれば、褒めて貰えたんだ。人間偉くなればなるほど難しくなる。足軽大将程度でこうなら、三ヶ国の太守となれば如何ほどだろう)

p.141~142

俸禄は少ないけど、気軽な下っ端。上に立つ者は、実入りは多くなるけど、苦労も多くなる。難しいところですが、私は下っ端でも良いかな。まぁ収入は、多いに越したことはないですが。


しかし穴山梅雪の手紙を読み、「眼福にございました」(p.157)と言った茂兵衛には、何だか感動しました。1巻の暴れん坊が、こんなセリフを言えるようになるとは。


二十日間で、駿河と甲府を二往復した計算になる。茂兵衛隊は、将も兵も軍馬も、誰も彼もが疲労困憊していた。

p.205~206

読んでいるこちらも、今巻は疲れました。


(つまり、信長も信玄も、京の朝廷と一緒で、手前ェの土地が「攻められる」ことは想定してなかったってわけか)
(中略)
信長や信玄にとって、城とは「攻めるもの」であって「攻められるもの」ではなかったのかも知れない。
(中略)
信長は端から、戦国の城を築く気はなかったのだ。安土城は、信長の武威の象徴であり、乱世の終焉の象徴として建てられた。茂兵衛が安土城の天守を「五重塔に似ている」と感じたのは、そういうことだったのかも知れない。

p.241~242

武人である茂兵衛の目から見ると、信玄の躑躅ヶ崎館も信長の安土城も、そして「まだ御土居や濠もな」い京の都は不用心と感じられます。それに対する茂兵衛の、というより作者である井原忠政さんの解釈かと思いますが、面白い考察です。


(信長って野郎は、つくづく雨男だら)
桶狭間は豪雨の中だったし、姉川、長篠――信長の人生で節目となるような大戦の多くが、梅雨時に集中していた。そして今、本能寺だ。天正十年(一五八二)六月二日は、新暦だと六月二十一日に当たる。まさに人生の終焉を梅雨のさ中に迎えたわけだ。
勿論、偶然ではない。
信長は早くから軍制改革に手を付けており、直属の常備軍を編制して城下に住まわせた。国衆地侍の軍役に頼る周辺諸大名が農繁期の戦を嫌うので、むしろ梅雨時を狙って戦を仕掛けたのだ。今回も同様で、農繁期のうちにと、毛利と長宗我部を討つべく出撃した先での遭難であった。

p.271

信長の戦いだけではなく、他の戦いでも、行われた季節に注目して考察すると、面白いことが分かりそうです。


さて次巻は、家康の人生でも3本の指に入るであろうピンチの1つである伊賀越えです。それに付き従う茂兵衛は、どうやって危機を乗り切るのでしょうか。


見出し画像は、浜松市内で見かけた出世大名家康くんの看板です。


↑文庫版



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