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将軍も楽ではない~『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』(鈴木尚)~

この本を読んだきっかけは、大学の時の人類学のプリントを、プチ断捨離の一環で見たことです。


目を疑ったのは、江戸幕府13代将軍の家定の最初の正室だった、天親院任子の頭骨及び頭部復元図。他の人の復元図にはない、髷を結っているような盛り上がりがあったのです。どうしても気になってしまい、それでこの本をわざわざ書庫から出してもらってまで、読んでみたのです。


結論からいうと、彼女の頭部には髪の毛が残っており、白木の櫛を芯にした髷が結われていました。分かってしまうと、何てことのない結果でした。

でもせっかくなので、全文読んでみましたが、いろいろ面白かったです。以下、備忘録代わりに抜き書きしておきます。


徳川将軍家は京都の親王家や公卿から正室をむかえることが慣例となったが、(中略)それら深窓出身の正妻から生まれた子供で、次の将軍になった者が一人もいないということは事実である。ということは、常に新将軍は、武家その他の庶民クラス出身の側室から生まれているということである。

p.13

ちょっとこれ、意味深です。


食事の前後で、ご飯とお菜の目方をはかり、食べ方が少ないと、調理の仕方が悪かったのではないかと、その掛りの役人が調べられたり、身体の具合が悪いのではないかと、医者が呼ばれたりするので、いつも好き嫌いなく、同じ分量を食べるように気を配っていなければならなかった。

p.15

将軍も楽ではないですね。毒見があるので、熱い料理はそもそも食べられないし。


酒は時折、食膳に出されたが、これは御膳酒といって色は赤く、いやな臭のさけであったという。

p.16

あらま。


蛋白質・脂肪分は甚だ少なかったとみるべきである。なお後述のように、将軍の中で60歳という最高齢で死去した12代家慶の場合、すべての歯は咀嚼による摩耗(咬耗)が全くなく、どの歯もそれらが生え出た青年の頃そのままの状態で、しかも各咬頭は真珠のように滑らかで、かつ光沢があった。いわんや、それより若い他の将軍にあっては、なおさらのことである。つまり当時のみならず、現代の庶民に比べても歯の咬耗が甚だしく少なかったことが、将軍の歯の特徴である。このことから考えると、固いもの、歯ごたえのあるものは食膳に上らないのみか、上記の食品も噛む必要がないほど軟く調理されていたものと思われる。後述するように、将軍の咀嚼器官の発達が甚だしく悪かったのは、たぶんこんなところに主な原因があったのだろう。

p.16

どれほど軟らかいものが供されていたのでしょう。


将軍の夫人や娘たちも、お庭に出ることもできないし、用便の時も女中を同伴して後始末をさせなければいけないし、不自由極まりないです。


驚いたのは9代家重が、頭骨から考えると美男子だったこと。ただ残念ながら歯ぎしりの癖があった上、髭剃りや整髪を嫌っていたので、そうは見えなかったのでしょう。「頭骨をもとにして復原された家重の顔つきと、徳川家に伝わる家重肖像との間にある不一致は、後者が、絵師により、お側近くでスケッチされた、現実の家重の姿と推察されるだけに、眉を寄せ顔をしかめているのは、たとえば脳性麻痺による病的表情があったためと理解されるのではなかろうか」(p.58)。


将軍に共通する特徴として、「一般に当時の庶民と現代日本の平均よりも大型の頭をもち、したがって脳の容積も大きい。(中略)身長はむしろ低」(p.81)かったとか。中でも12代家慶は頭が大きい上に身長が低かったので、「辛うじて6頭身に達したかどうかが疑われるほど」だそうです。


正室や側室にも共通する特徴がありました。

面長な顔が望ましいけれども、当時の庶民の標準より長ければ許される。しかしこの場合でもあごの幅は狭くなければならない。(中略)鼻の隆起も高いことが必要であり、時代性と見られる反っ歯や口のつき出した顔も望ましい形質ではなかった。

p.154

将軍やその配偶者、そして大名に共通する特徴は、「当時とすればまだ未来型であるべき現代日本人の形質を、さらに近代化させた、いわば超現代的とも理解されるもの」(p.200)ということになります。

ということは、時代劇で将軍などの役を現代風の顔のアイドルが演じても、実は顔立ち的には問題がないということになります。まぁ現代のアイドルは、基本的には大願面でも低身長でもないので、その点は問題がありますが。


配偶者の選択が、江戸時代の貴族の間で、長い年月にわたって代々繰り返されたとすれば、当然、遺伝的セレクションが行われて、その子孫にあっては急速に形質の近代化が進化するはずであり、さらに貴族的生活にもとづく咀嚼器官の発育不全が加わるならば、両者は相乗され、その結果、徳川将軍や江戸時代大名にみられるような、形質の貴族化が、当然期待されることになる。

p.209

この貴族化は結構急速に進むようで、例えば「仙台藩主の伊達家は外様大名の中では大藩であるが、初代政宗は中世庶民的形質を多分に残していたのに対し、2代忠宗、3代綱宗と広大になるほど、急速に貴族化が進み、綱宗にあっては後期将軍と余り違わない形質をもっていた」とか。


鎌倉時代になると、大きな名(みょう)(領地)をもち、多数の家の子、郎党を従えた武士を大名、小さな名しかもたぬものを小名というように変ってきた。

p.155



見出し画像には「みんなのフォトギャラリー」から、ガイコツのイラストをお借りいたしました。




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