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「3.11」 と わたし Vol.18 「外のもの」という「弱点」を全力で活かす

東大むら塾 乘濵駿平さん

震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前この先の10年

今日の主人公は、東京大学のむら塾副代表兼飯舘村グループマネージャー
乘濵 駿平(のりはま しゅんぺい)さん。

千葉県で農業×地域おこしをテーマに活動していた東大のサークルが
飯舘村にやってきたのは2年前。

東京大学前期教養学部文科Ⅱ類2年。
4月から工学部電子情報工学科。
震災当時9歳、大学生になり飯舘村に関わるようになった乘濵くんが感じた「今の飯舘村」のこと。


集団下校の帰りに

 10年前の2011年3月11日。
 当時小学4年生、5日後に誕生日を控えた9才の私。
 東京に住んでいた。

 春休みに入る少し前。その日は集団下校の日だった。授業は午前中で終わり、午後は登校班で集まって、集団下校という流れだった。

 2時35分頃に学校を出た我々は、10分くらいで家の近くまで来て、それぞれの家へ別れようというその時だった。急に大きな揺れが来て、外の電柱が揺れているのがわかった。揺れがこんなにも目に見えてわかるのは初めてだった。怖かった。

 家に帰るとテレビでは最大で震度7であった、マグニチュードが8や9近い、そして津波がやってくるということが繰り返し伝えられていた。
 あの時の津波到達予想地域のマップは、今でも鮮明に覚えている。太平洋側の沿岸部が黄色になり、東北の沿岸部は赤色に染まっている。そして予想通り、いや予想を超える津波が、街を飲み込む映像は衝撃的という言葉では十分に言い表せないほどのものであった。

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 甚大な被害をもたらした大地震は、東京にも影響を及ぼしたが、それは数日もすると解消していった。
 一方でテレビではACのCMとともに被災地の現状が伝えられていく。死者・行方不明者・死傷者の数は毎日更新された。そして福島第一原発の様子も伝えられた。

 ただ、この時やっぱり自分にとってはまだ距離があった。他人事とまでは行かないが、かといってリアリティもなかった。ニュースで伝えられる重苦しい内容を、正面から受け止めはしなかった。

 僕にとっての3.11のリアルとは、揺れていた電柱でしかなかった のかもしれない。

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修学旅行で訪れた東北

 震災から4年が経ち、私は中学3年生になっていた。
 5月に「東北地域研究」という、修学旅行のような行事があった。

 このとき訪れたのは宮城県気仙沼市、岩手県陸前高田市、大船渡市といったところだった。自分の足で被災地を歩き、目で見て、耳で直接お話を伺い、全身で学んだ。
 この時初めて、震災がリアルな感覚と結びついたのかもしれない。

 特に印象的だったのは陸前高田市。全体的なかさ上げ工事が行われていたため、茶色い土の上、高い位置にベルトコンベアが通っている景色が広がっていた。とても街とは言えないその様子に衝撃を受けたのを覚えている。

 14歳の私に強烈な印象を残した地域研究であったが、中高生として濃い日々を送る中で、その記憶も少しずつ薄れていってしまったのもまた事実である。


飯舘村との出会い

 そんな私が福島県飯舘村に出会ったのは約1年半前の2019年6月である。

 その年東京大学に入学した私はサークルを探していた。高校時代から、部活の先輩を通して知っていた「東大むら塾」というサークルがある。このサークルは千葉県富津市で農業×地域おこしをテーマに活動しているのだが、その年から福島県での活動を始める予定であると知った。

 生来、新しいもの好きな私は、福島県で始めるという新たな活動に惹かれて東大むら塾に入ることを決めた。

 東北地域研究で宮城県と岩手県には行ったものの、福島県には来ていなかった。そのため飯舘村は、「名前を聞いたことがあるような気がする」、くらいの感じだったのが正直なところだ。

 3.11の津波による被害は目にしていたが、原発事故による被害と向き合ったのは初めてのことだった。7月に初めて訪れた際、緑色のフレコンバッグがたくさんある光景は違和感があった。

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 ただ、それよりも東京で育った私にとって、飯舘村は農村としての印象の方が強かった。

 飯舘村は確実に震災の、原発事故の影響がある村であり、抱えている課題は帰村住民の少なさによる、少子高齢化・過疎化の過度な進行であった。しかし、これは言ってしまえば、日本全国の農村が抱える課題 であった。

 実際にその年の8月から蕎麦栽培を始めると、放射能の影響で食品として出荷する際のハードルの高さは感じた。しかし、それよりも耕作放棄地の問題、獣害対策、後継者不足の問題などが農家にとっては大きいように感じた。やはりこれは 日本全国の農村が抱える課題 である。

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↑飯舘村でおこなった蕎麦栽培の様子。播種から脱穀まですべて手作業だ。

 蕎麦栽培を終え、村の方々に手打ちそばを振る舞うと、11月になっていた。飯舘村の冬はとても寒く雪が降るため、農閑期となる。
 ただ農業が再開する3月まで待っていられない我々は、冬も飯舘村に通い、活動を続けることにした。


飯舘村の過去、現在、そして未来

 蕎麦作りを終えたとき、どんな活動をしようかと我々は悩み、話し合った。しかし答えはなかなか出なかった。理由は明確だった。

あまりに飯舘村のことも、村民のことも知らない。

 「飯舘村のために」と口で言うのは簡単ではあるが、それを実行するのは難しい。何が「飯舘村のため」なのか、全く明白ではないからだ。
 観光客を増やすこと、職を増やすこと、元村民が戻ってくること、人口が増えること、予算が増えること...。何をもってして「村のために」なっていると言えるのか、わからなかった。

 そこで始めたのがインタビュー活動であった。村の方々がどんなことを思い、どんなことを望んでいるのかを知るため、「過去・現在・未来」について伺った。
 より具体的に言えば、以下のようなことを目的としてインタビューをしていった。

 過去からの流れをしっかりと意識する。
 そして、今どのような面白い動きが村内にあるのかを知る。
 さらに、それぞれがどんな理想の「飯舘村」像を抱いているのかを共有する。

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↑インタビュー活動の様子。福島大学のみなさんにもご協力いただいた。

 そんなインタビュー活動を終えた我々は、飯舘村の過去・現在・未来を発信し共有するため、一冊の冊子にまとめた。それが、「いいたてむらびとずかん」だ。(村内各地で配布中)

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 そして、インタビューを通して我々は、必ずしも村民が戻ってくることや観光客が増えることがゴールではないことを知った。また、理想の飯舘像は一人ひとり違いながらも、それぞれが持っていて、大切にしていることを知った。


むら塾にしかできないことを

 ここまで私の、そして東大むら塾の10年間を振り返ってきた。

 私には震災の原体験があまりない。そしてその体験や、被災地を訪れた際の記憶も薄れつつある。そのせいか、飯舘村に訪れた時により印象に残っているのは被災地としての側面よりも、農村としての側面であった。

 裏を返せば、東大むら塾は 震災にとらわれず、いまの「飯舘村」をありのままに見ることができる のかもしれない。

 震災があったという過去も、7年間の全村避難という過去も変えられない。原発事故の影響で、今も農作物の出荷に制約があるのは事実だ。

 しかし、目の前には少子高齢化・過疎化が極端に進んだ農村の姿がある。また、自ら飯舘の地を選び、力強く歩き続ける村民の姿がある。さらに、いつでも暖かく迎えてくれる笑顔がある。

 東京から飯舘村に行くのには時間もお金もかかる。どれだけ行ってもいつまでも「外のもの」であることは変わりないだろう。

 ならば、その「弱点」を逆に全力で活かしていくのが、東大むら塾のやるべきことだろう。
 飯舘村のいまを、メガネをかけず真っ直ぐに見つめ、ただひたすらに村の未来を想像し創造していく。

 10年後、東大むら塾が飯舘村で活動していてよかった、乘濵が活動していてよかったと思われるように、むら塾にしかできないことをコツコツと積み重ねていく10年、いや一年一年にしたい。 

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