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「とことわの過ぎてゆく者」~ 京都にて

  昨年(2021年)の11月初旬、わたしは京都の街を「もやもや」を抱えて歩き回っていた。

 その前日、曼殊院から圓光寺、詩仙堂を歩いて古都の秋を堪能した後で、現地で一人暮らしをしている息子に会った。
 息子は2020年の春、大学進学のため親元を離れた。当時、世の中はコロナ禍に突入したばかり。ハラハラしながら引っ越しを終えたものの、入学式は中止、対面授業は皆無、同級生の顔も名前も知らない、という新生活が始まった。親は遠くから見守るしかない。混乱のなか、あっという間に月日はながれ、息子は数回キャンパスに足を踏み入れただけで2回生となった。
 秋になり、感染状況が少し落ち着いた頃を見計らって、観光がてら、息子のもとを訪ねてみたのである。

 実際の暮らしぶりを目にすると、彼はなんの問題もなく生活していることがわかった。キャンパスライフを謳歌するにはほど遠いが、自転車でほうぼうに出かけ、安いスーパーを探して節約し、アルバイトも始めていた。拍子抜けするくらい、京都になじんでいるのだった。
 その夜は近所にある京野菜のおいしいお店で夕食を共にし、わたしはバス停で息子に見送られて宿に戻った。
 ひとりになると、安心すると同時に、あー、ついに「巣立ち」が完了したんだなという思いがこみ上げてきた。それから、観光客であるわたしに対して、彼は京都で暮らしている人なのだ、ということに気がついた。むむ、なんかちょっとうらやましいじゃないか。
 ……まったく予想外にそんな感情が湧いてきた。それは今まで感じたことのない複雑な感情だった。ひじょうに戸惑い、なるべく自覚しないように努めた。でも心には「もやもや」が滞留した。

 一夜明けて、その日は朝から比叡山に行った。ケーブルカーとロープウェイとバスを乗り継いで初めて訪れた比叡山は、雨模様で10℃に届かない寒さだった。西塔や横川のほうまで足を延ばすと観光客は少なく、やはり修行の地なのだと思わせる。昨夜からの「もやもや」がおのずから浮かんできて、加えてお腹もすいて悲しくなってきた。昼をだいぶ過ぎ、食堂でやっとありつけたごく普通のそばがとんでもなくおいしかった。
 山を下りた後はとくに予定はなく、三条の駅から鴨川を越えて繁華街のほうにぶらぶらと歩いて行った。比叡山と違って賑やかな街を歩いているというのに、心の「もやもや」は晴れないまま。せっかく京都にいるのに、だめだだめだ……と、「もやもや」を払うようにあてもなく歩きまわった。(実際この日、スマホの歩数表示は2万3000歩を超えた。)
 すると。あれ、京都をやみくもに歩くって、そういう話があったよな。 なんだっけ? あ、梶井基次郎じゃん! と突然思いおこした。
 不思議なもので、梶井を思い出すと間もなく(もちろん文章の一言一句までは覚えていなかったけれど)、心の「もやもや」が薄くなっていくのを感じたのである。

 京都から帰宅して、本棚にあったちくま文庫の『梶井基次郎全集』(全一巻)を取り出して読み返した。
 そう、梶井基次郎で京都といえば「檸檬」。
 大正時代、京都の旧制高校生であった「檸檬」の主人公は、「えたいの知れない不吉な塊」=焦燥とか嫌悪とかいうようなものを抱えて、「始終私は街から街を浮浪し続けていた」

 ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へという風に友達の下宿を転々として暮していたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取残された。私はまたそこから彷徨い出なければならなかった。何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に云ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立留ったり、乾物屋の乾蝦や棒鱈や湯葉を眺めたり、とうとう私は二条の方へ寺町を下り、そこの果物屋で足を留めた。

梶井基次郎「檸檬」

 主人公はその果物屋で檸檬をひとつだけ買い、ふたたび彷徨を続ける。
 たったひとつの檸檬を手にしただけで「不吉な塊」は弛んでいき、幸福を感じた主人公はこう思うのだ。

それにしても心という奴は何という不可思議な奴だろう。

梶井基次郎「檸檬」

 街を歩きつづけた後、主人公は檸檬をどうしたか。その結末はあまりにも有名なので、引用する必要はないであろう。

 「檸檬」ほど知られてはいないが、梶井には京都を舞台にした「ある心の風景」という短編もある。
 この作品の主人公・喬は、ある病を得ており、陰鬱な気持ちで部屋の窓から夜更けの街の風景を眺めたり、街を歩きまわったりする。

 喬は夜更けまで街をほっつき歩くことがあった。
 人通りの絶えた四条通は稀に酔っ払いが通るくらいのもので、夜霧はアルファルトの上までおりて来ている。(中略)
 新京極に折れると、たてた戸の間から金盥を持って風呂へ出かけてゆく女の下駄が鳴り、ローラースケートを持ち出す小店員、うどんの出前を運ぶ男、往来の真中で棒押しをしている若者などが、異様な盛り場の夜更けを見せている。昼間は雑鬧のなかに埋れていたこの人びとはこの時刻になって存在を現わして来るのだと思えた。
 新京極を抜けると町は本当の夜更けになっている。昼間は気のつかない自分の下駄の音が変に耳につく。そしてあたりの静寂は、なにか自分が変なたくらみを持って町を歩いているような感じを起させる。

梶井基次郎「ある心の風景」

 主人公は街を歩きながら、ある感慨を得る。

 ここでも町は、窓辺から見る風景のように、歩いている彼に展(ひら)けてゆくのであった。
 生れてから未だ一度も踏まなかった道。そして同時に、実に親しい思いを起させる道。――それはもう彼が限られた回数通り過ぎたことのあるいつもの道ではなかった。いつのころから歩いているのか、喬は自分がとことわの過ぎてゆく者であるのを今は感じた。

梶井基次郎「ある心の風景」

 「とことわの過ぎてゆく者」。難解だが、風景のなかで、つねに通過者であるにすぎない人間の存在を言っているのかな、とわたしは解釈し、わかったような気になっている。

 読み返した梶井の全集は、むかし、大学時代にテキストとして使ったものだ(わたしは物持ちが良い)。線が引かれていたり、書き込みが残っていたりしてびっくりした。講義の内容はまったく覚えていない。梶井の作品じたい、わたしのなかではなんとなく好きだな、という位置づけだった。
 それが、四半世紀たって読み返してみて、率直に「いいなあ」と感じた。
 風景への関心と行き届いた観察、それに裏打ちされた細やかな描写。風景と心象とのかさなり。なんて魅力的なのだろう。若い頃にはわからなかった。書いた梶井は若かったが、老成していたのだと思う。

 1年前のあのとき、京都をふらふら歩いていたわたしの「もやもや」が晴れたのは、梶井の文学が同行者となってくれたからだ。
  「それにしても心という奴は何という不可思議な奴だろう。」
    梶井のひとことに、「ほんとうにそうだね」と言いたくなる。

※引用は『梶井基次郎全集』全一巻(ちくま文庫、1993年)に拠った。

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