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saṅgaḥ


お疲れさまです。

抱えていた仕事がひと段落して、くつろぎなうの私です。

箱買いしたドーナツ片手にバランタインさんwith MONSTER(白)。至福。

束の間の安息を噛み締めながらほんのりふわふわ、ほろ酔い気分。

そんな夢見心地で、今回は法話というものについて改めて向き合わせていただこうと思います。


そもそも、法話とは。

ざっくり言うと、法(人間という集団で生きる上でのルール)の話(説明)です。

詳しくは、動画にまとめてあるので見てみてください。


法話を話す布教使のスタンスは、基本的に『法を仏に代わってお伝えする』です。

言うなれば『仏法専門の郵便屋さん』ですね。

なので、法話専門の僧侶を「布教師」ではなく『布教使』と呼ぶのです。


とりわけ、私の教わる浄土真宗では法話を大切にします。

それはやはり、他者と生きる上で「話」というのはとても重要な行いだからです。

この『話』とはどういう行いなのかというと、ズバリ「聞くこと」です。

どんなに上手い喋りをする人でも、相手の話を聞かず一方的に語り続けるのでは話になりません。

『話』とは、「聞き合う」ことです。

聞いた上で喋る、そういう協力作業なのです。


親鸞さんの教えというのは人と人とが如何に上手く関わっていくかの教えで御座いますので、一番身近なコミュニケーション手段である『話』を重要視するのは当然の帰結だったのかなぁとも思います。


そして、御法座で行うのは『法話』。

『法』の『話』で御座います。

これは話の内容だけでなくその演出まできっちり考えられた上でのもので御座いまして、その辺を鑑みるとやっぱり親鸞さん半端ねぇなって思うわけです。

『拘れる』『妥協できない』は才能ですよ、いやホント。


そんなこだわりポイントをいくつか紹介していきたいのですが、今回特筆したい点は『衣』です。


みなさん、お坊さんと言われたらどんな姿を想像しますか?

それぞれに思い浮かべる格好があると思います。

でもそれはおそらく、こういうモノではなかろうか。

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これは夏使用なんでシースルーになっていますが、普通は透けない布です。

この衣は「布袍」「間衣」「道服」なんて呼ばれるもので、僧侶が平時に身に着ける衣です。

最近ではスーツの上にこの衣だけを羽織るスタイルも定着し、「僧侶と言えば」の象徴のような代物となっています。


そしてもう一つ、お葬式や大きな法要に行くとやたら絢爛豪華な衣をまとったお坊さんを見たことはありませんか?

それが、たぶんこれです。

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見辛いですが、「七条袈裟」に『色衣』という衣を纏っています。

表の金襴で装飾された布が「七条袈裟」、ちらっと見えている青い衣が『色衣(しきえ)』です。

この『色衣』は道服と違い法要の出勤時(おつとめ中)にのみ用いられ、平時には身に着けません。

というのも、これは「衣装」だからです。


そもそも、お坊さんの勤める法要とは。

お寺にお参りしたことのある方なら想像していただきたいのですが、本堂へ入るとお参りさまが入れる場所とそうじゃない場所があって、お坊さんが勤行を勤めるのは奥の立ち入り禁止ゾーンだと思います。

そのゾーンには何があるのかと言えば、これまた絢爛豪華な阿弥陀様(ご本尊)をはじめとする仏具たちです。

これを俗っぽく表現すると、『舞台』です。

仏具たちは『舞台セット』に『小道具』、勤める演目は『お浄土』です。

だから「色衣」は『衣装』で、僧侶はお浄土の住人を表す『演者』なのです。

その為、『色衣』は平時使用を致しません。


最後にこちら。

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『黒衣(こくえ)』です。


あんまり見覚えが無いかも知れません。

これは、布教使の正装です。

布教は原則この格好で行います。


これは親鸞さんの意が一番込められた衣ともいえるもので、形は『色衣』と近いのですが意味合いは全く別。

この「黒衣」は、正式には「墨色」と言って色彩序列で最下位に位置付けられる色に染められています。

親鸞さんはこの墨色を好んで身に着けたことでも有名なのですが、その理由が素敵でしてねぇ。

大事なのは「最下位の色」ということで、別に色味が気に入っていたとかそういうわけじゃないんです。

なぜ「最下位」の色に拘ったのかというと、『人間社会での位階で身を落とすため』です。


親鸞さんは、すごい人です。

賢くて、実績もあって、行動力や人徳もある。

尊敬されて当然の方です。


でもそれは、端の人間が思うことで本人が思っちゃいけないんですよね。


その点お坊さんって、危ない職業なんですよ。

立派な立派な仏様の教えがこの口を通って人へ伝わるもんだから、自分が有難い存在なんじゃないかって勘違いしちゃう。

とんだ虎の威を借る狐ですよ。


だから、親鸞さんは自分で自分を戒めたんです。

最下位の衣を身に着けることによって、当時社会で蔑まれていた「屠沽の下類」と呼ばれる彼らに肩を並べ、「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」。

つまり、「人間の定める身分など取るに足らないものだ。」と申したのです。

ロックだよね~、惚れるよ。


まぁ、そんな所以もあり現在でも布教の場ではこの『黒衣』を用いましょうと伝えられているわけであります。

私はこの『黒衣』が大好きで、身に着けるたびにウッキウキです。


ちなみに、法話って基本的に50分~90分間お話を致します。

お葬式なんかだと15分くらいの短いお話も御座いますが、布教使を招いての法座となれば、やはり上記くらいの時間は用意されてます。

私が先日出講させて頂いた御法座は90分でした。

丁度大学の講義一コマ分ですね。

長いですよ。


それこそ、相手の反応を聞きながらでないと話せません。

「教えてやろう」なんて上から目線では誰もついてきません。


「この話は共感して頂ける」「あ、これは微妙そうだ」

そうやって話を聞いてくださるお参りさまの反応から、また己の理解を見返しあらためる。

それがきっと『法話』の話し方なんでしょう。


めちゃんこ難しいけど、めちゃんこ面白いよ。

話す内容は依然「仏法」なんだけど、それはつまり同じものに対する視点の共有なんですよね。

誰かの視点を鵜呑みにするわけじゃあない。

今の時代にこんな思考の殴り合いが出来るのは、法座だけなんだろうなと思います。

人間についての理解を深める場所だからね、うん。


そうした経験値が技能の巧拙に繋がって、だから老手は=老巧なのでしょう。

良いなぁ…


お坊さん、最高に楽しいぜ。




ありがとう、だいすき。