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超短編小説 ぬるいかわ

何とも湿気の多い日だ。気温も40度に届きそうだ。身体の表面だけでなく内臓のそこかしこに潰瘍ができ、溶けていくようだった。
口からひどい臭いがしていた。けれど、自分の臭いだと思えば興味がわき、呼気をいちいち吸い込んで記憶をたどり始めた。臭気の原因になるものでも食べたのかも知れないと思ったのだったが、すぐに面倒くさくなった。

差し込んだカギ穴の奥で、じゃりじゃりというような音がして、見上げたら、今朝出て行ったときよりアパートはひと回りほど大きくなっていた。ああ、6月だからだと思った。
ドアの四隅から発生した錆は中心に向かって這い、私の姿を認めた直後、さらにその速度を増したようだった。ドアノブを両手のひらのぬめりごと押さえつけるように握りしめ、力いっぱい引いた。ぬめりが勝り、尻をコンクリートの地面にしこたま打ちつけた。
何度かくり返していたら、となりの103号室のドアが音もなく開いた。錆に襲われているのは102号室だけらしい。あずき大のできもので顔中を覆われた矢口は、すでに矢口ではなかった。
私の気配を感じるなり、鼻をつまんだ。しかめっ面をしたのか、顔の無数のあずきがよじれていくつも山脈をつくり、凹んだ部分を濁った水が涙のように流れている。
そいつは「なんだ、原田かと思った」と言い捨てて、そそくさとドアを閉めた。向こう側で、くさいぞくさいぞ!と叫んでいる。私も原田ではなくなってしまったらしい。
不要になった赤いパンプスから足を抜き、代わりに片方ずつ右手、左手とぬめりにまかせて挿入すると、20㎝のヒールでドアを何度も高速で強打した。錆が盛りあがった端と枠組みに隙間ができ、いっそう高速連打して広がったそこに手を差し入れ、内カギを外すことに成功した。
部屋に入ったら、キッチンの突き当たりに立てかけてある鏡に視線を縛られる。仁王立ちして睨むものがあった。原田であるはずの私の姿はもはや原田ではなかった。そのときが来たと、いよいよ確信した。

シャワーをあびてから、ことに及んだ。腕の付け根あたりから皮を脱ぎ始めたのだったがすぐに、これはいくら何でも放置しすぎだとあきれてしまう。皮は肉と密着していた。
爪をひっかけては、子供の時分にタンスに貼り付けたのが古くなって取れなくなったシールを剥がすみたいに、mm単位でめくらなければならない。赤黒い肉があらわになるにつれ、臭気はいっそうひどくなる。この肉こそが、臭いの根源だったのだ。
こんなふうになるまで、なぜ放置したのか。憎たらしさと怒りが爆発しそうになり堪える。興奮したら血管が破裂してしまうだろう。私はあせる。あまり時間をかけてはいけない。長くかかればかかるほど、痛みがひどくなるからだ。
濡れたままだから、熱がうばわれ身体が冷えていく。指さきが震えた。浴槽のフタの上に無造作に広げた新しい皮を見やった。

集中して何とかやりとげ、近くの土手まで歩いた。草を掻き分け掻き分け川べりに降りると、自分を解放するべく水に身体をゆるした。川の水はぬるかった。これぐらいが痛みにはちょうどいい。新しい皮の具合はまずまずだ。川下へ流されるようになりながら水面から顔を上げると、前方に頭が見えた。
矢口の匂いがしていたから矢口だったやつだと分かる。追い越すとき、矢口だったやつはこちらを一瞥しただけだった。あずきのようなできものはすっかりなくなっているようだったので、あいつも皮を脱ぎ替えたのだと思った。
水をかいたら、浮かんでいた目玉を偶然つかんだので、あいつに向かって投げつけてやると、ぐえっと鳴いた。それを合図に、川の両岸がざわざわして、無数の光の玉が迫ってきた。執拗な光はくすんだ黄色をしているので、生きものの眼に違いない。思わず水に潜って水底に身体を押しつけた。
しばらくじっとしていたが少しずつ息を吐くと泡が水面へのぼっていった。そのひとつひとつは私が原田だったころのウロコみたいだ。
いつのまにかあいつも水底に潜んでいて、「原田のウロコは最高だったな、おまえ原田じゃないけど」と耳元に声を忍ばせてきて、しがみつくように腕を伸ばしてきたので、身体をひねって川下へ泳いだ。さっきは知らぬふりをしていたくせに、とふてくされる。あいつのそういうところが嫌いなんだ。
懸命に両腕を動かして、どんどん川下へ流れていく。とどまろうとしても、川底に沈もうとしてもかなわない。

静かだった。ただ黒いだけの水にたったひとり流されていくのが急に不安になり、無我夢中で後ろをふりむくと、あいつのおでこで、三つ目の目玉が鈍い光を放っていた。
変化(へんげ)は順調なようだ。



万条由衣

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