雑記草 東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛

十三日間かけて、愛知県の豊明市の自宅から東京日本橋まで歩きました。その詳細を綴っていま…

雑記草 東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛

十三日間かけて、愛知県の豊明市の自宅から東京日本橋まで歩きました。その詳細を綴っています。 雑学など日々思うことを綴ったnoteもあります。https://note.com/zakkisou

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十三日目 令和元年五月十一日 十五時半頃

 東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十三日目 令和元年五月十一日 十五時半頃。武蔵國。日本橋。 【上段左】ヤン・ヨーステンの碑。「八重洲」の語源。 【上段中】日本橋の首都高高架が見えてきた。 【上段右】日本橋の親柱。 【中段左】日本橋に到着。撮影時刻は十五時二十七分。撮影はたまたまそこに居合わせた母娘二人連れにお願いした。日本橋の中央付近で、背後の道路の中央には「日本道路元標」がある。 【中段中】その道路元標の複製。 【中段右】観光客で賑わう日本橋。この中で愛

    • 十三日目 令和元年五月十一日 十五時頃

       東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十三日目 令和元年五月十一日 十五時頃。武蔵國。日本橋まぢか。 【上段左】東京タワーが見えてきた。愛知県から歩いて東京タワーを見に来た人間は、ここ十年の間では私だけかもしれない。 【上段中】日比谷神社。 【上段右】銀座の柳之碑。唄はコチラ。 【中段左】新橋の親柱。 【中段中、右】銀座のど真ん中を通る旧街道。歩行者天国開催日だった。 【下段左】京橋の親柱。 【下段中】史蹟 江戸歌舞伎発祥之地。 【下段右】日本橋まであと1k

      • 十三日目 令和元年五月十一日 十四時頃

         東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十三日目 令和元年五月十一日 十四時頃。武蔵國。品川宿から日本橋へ。 【上段左】高輪神社。なぜこれで「たかなわ」と読むか。昔、この辺りの高いところに縄手道(なわてみち、畦道のこと)があり、「高縄手(たかなわて)」と呼ばれていた。それが次第に「高縄」が「高輪」に変化したらしい。 【上段中】旧街道を疾走するゴーカート軍団。車体には「任天堂は無関係」とあり。 【上段右、中段左】高輪大木戸跡。日本橋に向かって見た様子と振り返った様子。日本

        • 十三日目 令和元年五月十一日 十三時半頃

           東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛 十三日目 令和元年五月十一日 十三時半頃。武蔵國。品川宿。 【上段右、中】うどん屋。膝栗毛の昼はうどん屋に限る。歩いていると旧街道に似つかわしい古ぼけたうどん屋の前を通ることがあるが、朝の早い時か三時頃などと昼飯として中途半端な時刻ばかりだった。この時はちょうど昼時だったが、店が新しすぎる。十年以上前はもう少し雰囲気のある店構えだったようだ。ここまでの膝栗毛で、昼にうどんを食べることができなかったので、ここで食べることにした。始めたば

        十三日目 令和元年五月十一日 十五時半頃

          十三日目 令和元年五月十一日 十二時半頃

           東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十三日目 令和元年五月十一日 十二時半頃。武蔵國。品川宿。 【上段左】海晏寺 鮫洲正観世音菩薩道標。左は贈太政大臣岩倉公御墓参拝道。 【上段中】海晏寺道標の土台石に見られる盃状穴。岩倉公の方は明治十九年(1886)なので、盃状穴はない。海晏寺は天保二年(1831)。 【上段右】銅板葺き塀の家。2024年現在、現存せず。 【中段左】品川寺(ほんせんじ)。 【中段中】品川寺銅造地蔵菩薩坐像。 【中段右】東海七福神。いい感じを醸し

          十三日目 令和元年五月十一日 十二時半頃

          十三日目 令和元年五月十一日 十二時頃

           東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十三日目 令和元年五月十一日 十二時頃。武蔵國。川崎宿から品川宿へ。 【上段左、中】旧街道の様子。 【上段右】浜川橋。別名泪橋。鈴ヶ森刑場に送られる罪人を親族が涙ながらに別れを告げる場所ということから。 【中段左、中】旧街道の様子。鮫洲商店街入口。 【中段右】八幡神社。鮫洲八幡神社とも。品川沖で鮫が取れ、腹の中から観音像が現れ、像は海晏寺に安置された。 【下段左】境内の手水鉢。明治三十八年(1905)の奉納なので、盃状穴はない

          十三日目 令和元年五月十一日 十二時頃

          十三日目 令和元年五月十一日 十一時半頃

           東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十三日目 令和元年五月十一日 十一時半頃。武蔵國。川崎宿。 【上段】磐井神社。江戸文人石碑群。真ん中の二つがそれ。右が狸筆塚 文化六年(1809)、左が竹岡先生書学碑 寛政八年(1796)。盃状穴が目立つ手水鉢。「卍」が彫られている珍しいもの。年代不明。 【中段左】盃状穴が彫られた狛犬。 【中段中】磐井の井戸。海が近いが、心の清い人が飲むと真水、邪心を持った人だと塩水になったと言う。現在は飲めない。 【中段右】鈴ヶ森刑場跡。遠州

          十三日目 令和元年五月十一日 十一時半頃

          十三日目 令和元年五月十一日 十一時頃

           東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十三日目 令和元年五月十一日 十一時頃。武蔵國。川崎宿。 【上段左】真っ直ぐな旧街道。橋は夫婦橋。江戸時代の街道図にも記載あり(上段右)。 【上段中、右】梅屋敷と和中散屋の跡。地図に記載あり「○和中散やあり かまだ(多)」。昔は、蒲田は濁って発音されていたのか。 【中段左、中】閻魔地蔵堂と貴舩神社。お堂には閻魔大王と地蔵とが鎮座ましましている。 【中段右】國の異体字ハンター。日清戦争時の大森村従軍者碑。篆額(碑の上部に篆字で書か

          十三日目 令和元年五月十一日 十一時頃

          十三日目 令和元年五月十一日 九時四十五分頃

           東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十三日目 令和元年五月十一日 九時四十五分頃。武蔵國。川崎宿。 【上段】市場の夫婦橋。二つの橋が続けてあったようだ。角にある青果店では、街道歩きの人びとにしょっちゅう「夫婦橋はどこだ」と訊かれるのだろう。防水加工した紙が電信柱につけてあった。この橋は江戸時代に出版された東海木曾/両道中懐宝図鑑にも載っている。 【中段左】芭蕉句碑。 麦の穂をた(多)よ(与)り(利)に(尓)つ(徒)か(可)む(無)別(わかれ)か(可)な(那) 右下

          十三日目 令和元年五月十一日 九時四十五分頃

          十三日目 令和元年五月十一日 八時四十五分頃

           東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十三日目 令和元年五月十一日 八時四十五分頃。武蔵國。神奈川宿から川崎宿へ。 【上段左】街中にある釣り餌屋。現役で営業中。 【上段中】旧街道は右側の道。 【上段右】寺尾稲荷道道標。複製。本物は鶴見神社境内にあるらしい。 【中段左】鶴見川橋。 【中段中】下町稲荷。 【中段右】稲荷社。市場一里塚跡。 【下段左】熊野神社の常夜燈。古そうだが、慶応三年(1867)。盃状穴は見当たらず。 【下段中、右】熊野神社の手水鉢。莊子の天地

          十三日目 令和元年五月十一日 八時四十五分頃

          十三日目 令和元年五月十一日 八時頃

           東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十三日目 令和元年五月十一日 八時頃。武蔵國。神奈川宿。 【上段左】国道(こくどう)駅付近。暮らしの中の変体仮名。「生麦 魚可゛し」。東京に近づくとこういう看板をよく見かけるようになる。名古屋ではかなり少ない。 【上段中、右、中段、下段左、中】JR東日本 鶴見線 国道駅ガード下。旧街道とは関係ないが、戦後の日本製ギャング映画に出てきそうな場所。何も予備知識もなく通りがかって、こんなところがまだ残っているのかと驚いた。  前途のお江戸

          十三日目 令和元年五月十一日 八時頃

          十三日目 令和元年五月十一日 七時四十五分頃

           東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十三日目 令和元年五月十一日 七時四十五分頃。武蔵國。神奈川宿。 【上段左】才兵衛稲荷。浄財を紛失したのを苦にして身を投げた僧侶を祀った。「才兵衛」は僧侶の名前ではならしいが、誰の名前かわからないと言う。 【上段中、右】生麦事件碑。明治十六年建立。今回の膝栗毛で行きたかった場所の一つがここだ。学校で生麦事件を教わった時、なぜこんな名前がついたのかが不思議だった。生麦と言えば早口言葉の「生麦生米生卵」ぐらいしか使わない。後に生麦村とい

          十三日目 令和元年五月十一日 七時四十五分頃

          十三日目 令和元年五月十一日 七時頃

           東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。 十三日目 令和元年五月十一日 七時頃。武蔵國。神奈川宿。 【上段】昨夜、宿泊したさくら旅館の便所。タイルがいい感じ。玄関に置かれた人形。商売繁盛の神様「仙臺四郎 」。『珍』がはみ出ている。玄関に大きな姿見があったので、記念撮影をした。こんな格好で旧東海道を歩いていた。この時、朝六時。 【中段左】さくら旅館前景。 【中段中】甚行寺。フランス公使館跡。 【中段右】なにやら精密な小さい祠。 【下段左、中】高層ビルの谷間に残されてい

          十三日目 令和元年五月十一日 七時頃

          十二日目 令和元年五月 十日十八時頃

           東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十二日目 令和元年五月 十日十八時頃。武蔵國。神奈川宿。 【上段左】香象院。大きなお釜が二つ。 【上段中】橘樹神社境内の力石。 【上段右、中段左】同境内の手水鉢。石盥盤(いしたらいばん)。延宝六年(1678)に寄進されたらしい。見事なまでの盃状穴が並ぶ。 【中段中】同境内の庚申塔。青面金剛(しょうめんこんごう)。寛文九年(1669)。青面金剛像としては横浜市最古と言われている。足元には庚申講の見ざる聞かざる言わざるの三猿が彫られ

          十二日目 令和元年五月 十日十八時頃

          十二日目 令和元年五月十日 十七時頃

           東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十二日目 令和元年五月十日 十七時頃。相模國から武蔵國。保土ヶ谷宿。 【上段】境木地蔵尊。相模國と武蔵国との境界。珍しく地蔵が祀られている。 【中段左、中】権太坂の途中で見えた暈。権太坂の坂下の様子。 【中段右】権太坂の麓にある魚屋「魚平」。東京、神奈川ではこういった昔ながらの魚屋が結構残っているが、名古屋近辺では完全に絶滅している。 【下段左】宿場町の僅かな名残。 【下段中】金沢横町道標四基。彫ってある内容はコチラ。ちょっと

          十二日目 令和元年五月十日 十七時頃

          十二日目 令和元年五月十日 十五時頃

           東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。十二日目 令和元年五月十日 十五時頃。相模國。戸塚宿。 【上段左】「これよ里(り) か満(ま)くら道」と彫ってあると思われる道標。風化がかなり進んでいる。 【上段中】八坂神社の手水鉢。盃状穴あり。奉納年月不明。 【上段右】澤邊本陣跡。明治天皇も泊まった。 【中段左】伊東医院。大正十四年(1925)に今の建物になった。 【中段中】宿場町の名残。現在は令和五年現在は潰されてしまっている。 【中段右】レンガ製の蔵。鎌倉ハムの倉庫だ

          十二日目 令和元年五月十日 十五時頃