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人間はなんのために探究するのか?

ファシリテーター・ライフコーチのまなみです。
「自然の中に学びの場をつくる」ことを目標に、2024年2月から東京都日野市に越してきました。
美しい作品を考え、作り、表すことで学習者の主体性を育み、学習者・コミュニティ・世界中の生命を豊かにする、そんな学びの場をみなさんとつくっていけると嬉しいです。


私は普段探究学習のサポートをしたり、海外での探究の事例について講演させていただいたりしているのですが、最近自分に与えられているテーマは「自分個人として関心があるテーマを、実社会や実生活での疑問や不満とどのように結びつけて問いを立てるか」ということだなと思い、勢いでnoteを書いてみました。

私は現在、学校での「総合的な探究の時間」で、コーチングを通して中高生が自分の問いを見つけるサポートをしています。
「総合的な探究の時間」というのはそもそも矛盾に溢れた時間で、運営するのがとても大変です。
生徒全員が授業の枠組みとして「探究しないといけない」という強制性も矛盾しているし、「総合的な探究の時間」終了のチャイムが終わった瞬間、いつもの講義形式の一方的な授業に戻るというのも大いなる矛盾です。
探究ができている生徒はもう学校外でも自分で探究を進めているだろうし、大半の生徒は「学校の授業だから」やっているのだろうし、それらしいテーマを持ってくる生徒がいても、表情や話し方を注視していないと大人に忖度した探究テーマになっている(なので一人だと全然やる気が湧かない)ことも多いです。

探究の問いを立てているときによくあるのは、「生徒が好きなもの、得意なもの、関心があるものをとにかく挙げてみよう」というワークです。
自分が好きなもの、得意なもの、関心があるものを知っていることは大切なのですが、これがそのまま探究の問いになるかというと意外とならない。
たとえばサッカー部に入っている生徒が「サッカー」と書いたとします。サッカーが好きなのね、じゃあサッカーの歴史について調べてみる?サッカーで結果を残すためにどんな健康管理をしたらいいか調べてみる?サッカーチームのビジネスモデルはどうなっているか調べてみる?と色々な方向から切り口を考えます。その場では「ふーん」となるものの、その次に会うと調査が全然進んでいない。一人で探究するほど興味がある問いにはならなかったわけです。


なぜ「サッカー」だけだとその生徒からエネルギーが湧いて出てくるような問いにならないのでしょうか。改めて文部科学省の「【総合的な探究の時間編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説」を読み直すと、探究について意外なことが書いてあります。


総合的な探究の時間とは、探究の見方・考え方を働かせ,横断的・総合的な学習を行うことを通して,自己の在り方生き方を考えながら,よりよく課題を発見し解決していくための資質・能力を次のとおり育成することを目指す。

(1)探究の過程において,課題の発見と解決に必要な知識及び技能を身に付け,課題に関わる概念を形成し,探究の意義や価値を理解するようにする。

(2)実社会や実生活と自己との関わりから問いを見いだし,自分で課題を立て,情報を集め,整理・分析して,まとめ・表現することができるようにする。

(3)探究に主体的・協働的に取り組むとともに,互いのよさを生かしながら,新たな価値を創造し,よりよい社会を実現しようとする態度を養う。

【総合的な探究の時間編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説


課題の設定とは…ここで重要なのが,実社会や実生活と自己との関わりから問いを見いだし,自分で課題を立てることである。問いや課題は,生徒がもっている知識や経験だけからは生まれないこともある。そこで,実社会や実生活と実際に関わることを求めている。その中で,過去と比べて現在に問題があること,他の場所と比べてこの場所には問題があること,自己の常識に照らして違和感を感じる問題があることなどを発見し,それが問題意識となり,自己との関わりの中で課題につながっていく。こうして,問いや課題が定まると,探究がスタートする。

【総合的な探究の時間編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説


探究における課題の設定は、「実社会や実生活と自己との関わりから問いを見い出し」てほしいと書いてあるのです。「サッカー部」であるというのは学校の中での取り組みで、厳密には「実社会」や「実生活」ではありません。もっとも今の中高生の生活のほとんどは学校の中に閉じられているので、この生徒から「サッカー」という言葉が出てくるのも当たり前かと思います。

そして意外と大人になっても「学校」が「会社」に置き換わるだけで、「実社会」や「実生活」の問いを見つけることができていないのではないでしょうか。


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私が日本についての章を寄稿した「Designing Democratic Schools and Learning Environments: A Global Perspective」では、本全体を通して四種類の問いが掲げられています。

- What does democratic schooling mean in various global contexts?
- How do school actualize liberty, equity, community, and collaboration in their local contexts? 
- How do schools manage and evolve to meet the moment; reflect the voice, values, and goals of their communities; and draw on community resources and funds of knowledge?
- How does democratic schooling prepare students for an unpredictable future? 

「Designing Democratic Schools and Learning Environments: A Global Perspective」XXXVページ


ここで気がつくのは、四つの問いのうち二つが、コミュニティにフォーカスしているということです。
「ローカルな文脈で学校はコミュニティをどう体現するのか?」「学校はどのようにコミュニティの声、価値観、目標を反映するのか?」という問いが立てられています。
私がハーバード教育大学院でお世話になったリンダ・ネイサン先生の授業でも、「どのコミュニティに対して学校や学びの場をつくりたいのか?」という問いを常に投げかけられました。


先日新渡戸文化小学校で行われた、学校の先生向けの学習イベントTeachers' Hubに登壇させていただきました。そのときにパネルでご一緒した平岡慎也さんはハイテックハイの大学院を卒業したばかりで、パネルの中で大学院のメンターからのこんな言葉を紹介していました。

ハイテックハイがプロジェクト型学習を行うのは「公正な教育」を実現する手段。何を北極星にプロジェクト型学習を行うのか日本でも考えてほしい。

ジョン・サントスさんより


大人になってもプロジェクト型学習について最新の情報を仕入れようとします。AIについて最新の情報を仕入れようとします。でもそれらを使って何を解決したいのか?という問いを立てることができなければ、冒頭で「自分はサッカーに興味があります」と言って探究の問いを立てられなかった生徒と変わりないのではないでしょうか。

問いを立てるという行為は、不満や怒りなどの感情と隣り合わせです。「なんでこんなに不便なんだろう、解決したい」「なんでこんなに不条理なんだろう、どうにかしたい」。
その感情に対して「みんなそうなんだから我慢しなさい」「そんなことしてもどうにもならない」「他人の問題だから自分は見ないフリをしよう」と蓋をしてしまうと、子どもでも大人でも問いを立てることはできません。
身の回りのことで自分が嫌なことはちゃんと嫌だと認識し、そこから何をどう良くできるのか考える。そこに問いを立てる、すなわち探究することの意義があるのではないかと思います。


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日本がそれぞれのコミュニティで抱える課題というのはどのようなものなのでしょうか。自分自身ももっと話し合っていきたいと思っています。もしこのnoteを読んで自分でも問いを立てたいと思っていただけた方は、7/24と7/28開催の「Designing Democratic Schools and Learning Environments: A Global Perspective」の日本語読書会でお待ちしています。




すべての人が組織や社会の中で自分らしく生きられるようにワークショップのファシリテーションやライフコーチングを提供しています。主体性・探究・Deeper Learningなどの研究も行います。サポートしていただいたお金は活動費や研究費に使わせていただきます。