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当たり前が蓄積されることの良し悪し#13


毎日noteを始めて13日目。

あれ、書くネタが尽きてきたなあ、と。

原因はさまざまだけど、そのうちの1つとして、当たり前が蓄積されてしまったことがあるのかなと思う。特にこの1年はより一層感じている。



この1年は、いつになくたくさんの多様な人と出会い、たくさんの学びの場へ参加し、たくさんの「できない」が「できる」になった。


私の場合は自己啓発系のイベントや読書での学び。最初は、話に1つ1つ感銘を受けていたはずが、ここ最近は「うん、そりゃ当たり前だよね」となってしまっている。誰しも慣れてくればそうなると思うんだけど。


インプットの数が多ければ、無理にアウトプットをせずとも学びにはなることが分かった。全く同じ話でなくても、似たような価値観の話を聞いたら、自分の心の中により定着する。数をこなせばそのうちに染み込んだかのように、自分の中に当たり前の価値観として形成される。無意識レベルでその価値観に沿った行動もできてしまう。


そんな感覚を味わえたこの1年は、自分で自分を誇りに思う。でも同時に反省したことも。

自分の内面や価値観が無意識のうちにアップデートされると、自分の行動や心動くことについての言語化ができなくなる。


大学の部活動で先輩から「この1年でとっても成長したね」と言われたのにも関わらず、過去の自分がどう解決していったのか、全然思いつかない。でも結果成長したんならいいや、って当時は思っていたけれど。


そんな成長したと思われることについて就職活動の内容にしたかったけれど、その過程を書くのにつまづき、結果を出しても模索した過程が分からなければ意味がない、とそこで気づいた。就職活動に使えようが使えまいがの話だけれど。
試行錯誤した経験を覚えていれば、自分自身の思考の傾向を知れる。自分なりに解決策を導いた過程こそが、自分のことを人に語れるし、私もその過程を理解していることによって自信を持つことができる。


「過去に何であんな些細なことで悩んでいたんだ?時間の無駄だったなあ」なんて、同じ自分なのに否定してしまったり。

今行動力のある自分は、「どうやったらフットワーク軽く行動できるの?」って問われることがよくある。過去にそうでなかった自分は何かしらの試行錯誤で今の自分になったはずなのに、必死に答えを探るも薄っぺらい答えしか出なくて、相手を切り離してしまいそうになったり。


今できていることができなかった自分、1つの価値観だけに捉われていた自分、学びの価値がわからなかった自分。あるいは他の人も。本当は真摯に向き合いたいけれど、時に上手くいかないこともある。


そう思って、noteで過去の自分から今の自分へと至った過程を書いたり、今思い悩むことについても書いていったりしている。noteにうまく消化できなかった時でも、紙の手帳やノートにすぐ思考を記録しておくことを心がけている。始めたばかりの頃よりも本心を書けるようになったし、細かい心の動きも見逃さずに書けるようになった。


そんな「書く」と向き合っている今、ネタを思いついても「どうせ皆の心の中にもある当たり前のことだよな」と封印してしまうことがある。


でも、何らか自分も、思考が価値観がアップデートされたはずだから、今の私が当たり前と思うことも、他の人には、過去の自分が見たら、思わぬ価値があるかもしれない。人数は多くなくても、誰もにある当たり前なんてそもそもないから、誰かしらには響くはず。そんな記事を書くには、自分の試行錯誤した過程を知ることなんだよね。


今からでもできる。試行錯誤をできる限り記録していく。過去の試行錯誤もできる限り思い出して書いてみる。そして、自分には当たり前に染み付いてしまった感覚も、少しずつnoteに公開できる時がくるといいな。

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