見出し画像

人間を救うことは、遊びである

「如来にとって、人間を救うことは、遊びのようなものである」

おそらく正確ではないと思うが、このような内容の文章をどこかで見かけたことがある。「あいだみつを展」だった気がするのだが、ちょっとよく覚えていない。でもそれを見たときに、「ああ、いいなあ」と思ったことだけはよく覚えている。

仏教で「人を救う」というと、厳しい修行の末に悟りを開いて、その境地を民衆に説くというイメージがあるが、如来にまでなると、人を救うのはもはや「遊び」だと言うのである。

世の中では一般に「人を救う」という言葉には、なにやら崇高な響きがある。そこにはときに、一種の自己犠牲のような印象が伴うことさえある。それを「遊び」と言ってしまうことには、批判的な気持ちを持つ人もいるかもしれない。

しかしどんなことだって、イヤイヤやるよりも、楽しくやったほうが、おおむねうまくいくものである。そしておそらく、人間が一番集中して、その人の持つ力を発揮しやすいのは、「本気で遊んでいるとき」ではないだろうか。

「遊びで人を救う」というのが不謹慎に思われるならば、「遊んでいるときのような心の状態でもって、人を救う」と言い換えてもいいかもしれない。

たとえば、「悟り」という、人間にとって最も困難な事業を為そうとするならば、なおさら「遊び」の心持ちが必要になってくるのではないか。お釈迦さんも、ただただ苦しい修行をしたというだけではなく、そのどこかに、「遊び」の要素を含めていたのではないだろうか。

そして僕らだって、身近な人を助けるのは、なんだか楽しかったり、うれしかったりするではないか。たとえそこに何も見返りがなかったとしても、である。

そしてそういう心持ちと行為が存在するとき、そこに「悟り」もまた存在する、と言ってもいいのではないか。

もちろん、それをもって「悟りの境地を得た」とか、「本日を持って、お釈迦さんと肩を並べました」とか、そういうことではない。その次の瞬間には、友人と一緒に他人の悪口を言ったりしているかもしれない。でも、ただただ無心に、何の打算もなく他人に手を差し伸べることは、掛け値なしに尊い行いである。

「人を救う」という言葉も少し大袈裟だが、誰かの役に立つようなことを、わざわざ気張ってやる必要もない。だって、如来が「遊び」でやってるんなら、僕らだって「遊び」でやっていいはずである。

「遊びでお互いを助け合ってる世界」

想像してみると、なかなか楽しそうではないか。

この記事が参加している募集

#習慣にしていること

130,856件

いつも応援ありがとうございます。いただいたサポートは、書籍の購入費に充てさせていただきます!!