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情報としての時間、体験としての時間

最近、YouTubeを聞きながら散歩するのが日課のようになっていて、きのうは養老孟司さんの「脳から見た芸術」と題した講演を聞いた。

芸術についてお話されていたが、最終的に養老さんが言いたかったのは、次のことであったと思う。

「情報は変化する。自分は変化しない」とみんな思っている。だけど本当は逆で、「情報は変化しない。人間は常に変化している」。この当たり前のことが逆に認識されているので、世の中がおかしくなるのは当たり前。

僕の記憶なので正確ではないけれど、確かそんな話だったと思う。

ちなみにここでの「情報」には「芸術」も含まれている。養老さんの例えを紹介すれば、レオナルド・ダ・ヴィンチはもうこの世にいないけれど、「モナリザ」はまだ残っている。「万物は流転する」と言ったヘラクレイトスは、その言葉どおり生から死へと流転したけれど、「万物は流転する」という彼の言葉は、今も変わらず残っている、というわけだ。生と死に限らず、人間は日々変化しているのに、人間の意識だけが「自分は自分」と思っているのである。カフカの『変身』の主人公が、虫に変化してしまったことを認めることができないように。

「情報は変化しない。人間は変化する」。

これは「時間」についても言えるだろう。

朝起きた時に、「さて、今日の24時間をどう使おうか!」と言う時の「24時間」とは、数値化された「情報としての時間」である。だからそれを紙などに書いて「1日のスケジュール」なるものを作成することができる。そこでは、時間が情報として固定化されているから、それを文字や表に置き換えて、思いのままに操作することができるわけである。

しかし、僕たちが実際に経験する時間はどうだろう。1日が終わった時に、「あ〜、今日はあっという間だったな!」とか、「なんだかずいぶん長い1日だったな〜」と思ったことが誰にでもあると思う。それは人間の経験としての時間であり、ミンコフスキーの言い方で言えば「生きられた時間」ということになるだろう。

そのような「生きられた時間」は伸縮自在で常に変化する。決して僕らが数値として捉える「24時間」と同じではない。計画するときの時間は「情報としての時間」だが、それを実際に生きるときの時間は「体験としての時間」、あるいは「人間としての時間」である、とでも言えばいいだろうか。

人間はいつのまにか、変化しない「情報としての時間」の方を内面化し、そちらを生きることに汲々とするようになった。だが「体験としての時間」を置き去りにしたそのような時間は、人間にある種のむなしさを感じさせている。

そこに生まれているのは、「自分じゃなくてもいい」という感覚ではないだろうか。

「情報としての時間」は、数値化され、固定化されているがゆえに「交換可能」である。だから、そのような時間を生きるのであれば、それは決して「自分である必要はない」ということになる。これが現代人にむなしさを感じさせているような気がする。

それに対して「体験としての時間」は、替えがきかない「交換不可能」な時間である。「きのうこんなことがあってさ〜!!」と自身の驚きの経験を伝えようとしても、自分が感じたのと全く同じ感覚を他人と共有することはできない。でも、だからこそ、それが共有できたように感じられたとき、僕たちは大きな喜びを感じるのだけれど。

僕たちはどのようにして「人間としての時間」を取り戻すのか。

今回のコロナ騒動や、それに伴う自粛の動きが、そのひとつのきっかけになればいいなと思う今日このごろである。

……さて、今日のスケジュールはどうすっかな!!

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