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失礼で傲慢な中年男性

僕の友人であるお坊さんが、「お寺の跡取り息子の宗教観」というテーマでお話する会があった。

そこで彼は、ひとりの僧侶が葛藤を乗り越え、「宗教性」の目醒めとともに自己を諒解する過程を、自らの体験とともにお話ししてくださった。

ちなみに参加者には僕の知り合いもいたが、半分くらいは初対面の方々だった。

その議論の中で、「仏教とキリスト教の違い」がひとつのテーマになった。

ちょうど僕の左右にクリスチャンの男性がおられたので、「じゃあクリスチャンである彼らにちょっとお話いただきましょうか」ということになった。

二人は僕よりかなり年配の人格者で、お互いに、

「どうぞどうぞ」

「いえいえ、そちらがどうぞ」

「そんな、どうぞどうぞ」

「どうぞどうぞ」

とやっている。

真ん中に座っていた僕はつい、

「これはフリかな?」

と思って、

「では、私が!」

とドヤ顔で手を挙げた。

僕の脳内では、ダチョウ倶楽部的なコントが展開されていたのだが、それは本当に僕の脳内だけで展開されていた。

みんな若干引いた様子でこちらを見て、

「え、杉原さんお詳しいんですか。それでは、お願いしましょうか……」

みたいな展開になってしまった。

僕はすぐに「やってしまった」ことを悟り、「いや、すみません、冗談です……どうぞ」と小さくなるほかなかった。

客観的に見たら、僕はクリスチャンである年配者二人を差し置いて、

「いやいや、俺にまかせろって」

と言わんばかりにキリスト教を語ろうとする、失礼で傲慢な中年男性でしかない。

思えば大阪から東京に出てきて、同じ失敗を何度くり返してきただろうか。

でも逆に問いたいが、あの状況で何もしないということが、人間として果たして可能だっただろうか。

「はい、ボケてね」という「フリ」が来た時に、それを無視してスルーすることは、その「フリ」をした人間を見殺しにすることにほかならない。

そんな残酷なことができるだろうか。

それに応えることは、人間としての「義務の領域」ではないだろうか。

しかし東京では、その「義務」を果たそうとして、自らが「残酷な結果」を迎えることがけっこうよくある。

僕が「すみません、冗談です……」となっている時に、向かいに座っていた友人だけが、ニヤニヤしながらこっちを見ていたのを、苦々しく思い出しながらこれを書いている。

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