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東北旅記 3,13〜依存と自立のリズム

ご無沙汰になりました。まみやです。
これは、ぼくが就職を間近に控えた大学4年の最後の春休みに東北を巡った旅行記なるもの。
世間はコロナ一色で、ぼくは多くのモヤモヤを抱える毎日。
そんな憂鬱な日々から逃げ出すために東北の各地を訪れ
今、ここで”見たもの” ”感じたこと” ”考えたこと” ”受け取ったこと”
をみらいの為に書き記しておくものです。
3,11@仙台~日常を続けたあの日から
3,12@女川・石巻~ぼくがここへ来た理由
3,13@陸前高田・気仙沼〜依存と自立のリズム

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あわいゆくころ

東北旅3日目。
昨夜読んでいた本のことを少し記しておこうと思う。

数ヶ月前、年が明けた頃に出会った
一冊の本が、ぼくを東北へと向かわせた。
『あわいゆくころ』
東日本大震災、当時芸大卒業を間近に控えた作者がボランティアへと向かい、
今日まで東北の土地で復興とともに絵と文章の創作を続けた日々がエッセイのように描かれている。
綴られた言葉があまりにも優しく、心強い。

震災当時の体験談は、当たり前の生活が美しいのだと気付かせてくれる。
生産性とか社会性とか、生活に意味づけを求め、焦るぼくに
「美しければいいじゃないか」と語りかけてくれているような気がしていた。

この土地の今を目にしたい。
この土地の人々の生活に触れたい。
この土地の人々の想いを心に刻みたい


と東北への旅を決したのだった。

窓から差した強い朝日に目を覚ます。
朝の身体を刺すような冷たさも、普段の生活から離れた「旅」にあることを思い出させてくれる。
今日も新しい土地を目指す。
気仙沼と陸前高田。
北上を続け、岩手は初上陸となる。
今日も「旅」を始めよう。
気が付くと、電車の時間が迫っていた。

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ぼくが旅に出る理由

「第三者」でなくなるということ。
ぼくが旅に出る理由は、自分が「第三者」のままでいたくないと思うから。
今回は他にも色んな理由が存在したけど、いつも一貫しているのはこれ。
かもしれない…。

幼い頃から社会問題とか、大災害とか、そんなことに何故か関心を持っていた。
東日本大震災後、東北へ訪れるのは3回目。
昨年の、阪神淡路大震災の追悼式典にも参加。
高校時には在日朝鮮人に対する差別への関心、
そこから大学時には性的マイノリティ、地方社会への関心と、
自分でも不思議なほどに、身体を向かせる。
そして可能なことなら「第三者」としてでなく、
「当事者」として人の生きづらさに寄り添いたい。
詳しくは 東北旅記3,11〜日常を続けたあの日からを。

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自立のリズム

陸前高田へ向かうバスに乗りながら考える。

東北を訪れて3日目、
いつもとは異なる土地での生活のリズムに心地の良さを感じていた。

地方特有のゆったりとした時間の流れ。
そんな先入観の中、自身をその中に入れ込んでいるのかもしれない。
けれども、どうやら差異があるように感じる。

このリズムとはきっと自立のリズムなのだと思う。

それは言語に当てはめると「余裕」なのかもしれない。
もちろん震災の跡は至る所に未だ残り、
「余裕」なんてと口にする人もいるだろう。

けれども確かに「余裕」はここに存在する。
「どこから来たの?」「わざわざありがとうね」
こちらに来て、そんな言葉をかけられた。
他人を思いやる「余裕」が確かにこの土地にはあった。

それが自立のリズムだと思う。

周囲からの影響を迫られていない、
自分は自分として生きる強さのようなもの。

ぼくをここに連れてきた本にこんな言葉が書いてあった。

「ここらの人は昔から助け合って生きてきた。それは何も変わっていない」

都会に比べるとあらゆる不便が溢れている。
それを人々は「助け合い」で補ってきた、
いや補うという言葉は似つかない。
それが何よりも豊かな事だと思えるから。

ここの人たちも「余裕」に生きているわけじゃない。
どこかへ行くにも、何かを食べることも、生きることも
あらゆる不便を超えて生きている
あらゆる障害を認め、受け入れて生きようと
もはや、障害だと捉えていないのかもしれない。

あらゆる「足りないもの」を認めることが、
一人一人の不完全さを認めて助け合うことを
生活の中で育まれてきたのだと感じる。

私たちは何かに「依存」して生きているのだと実感する。

メディアが感染症の流行を伝えれば、
マスクが売り切れ、町には無いはずのマスクが溢れかえる。

あらゆる「充足」の中での生活は
「足りないこと」に恥ずかしさを与え
自らの不完全さを「依存」によって誤魔化し生きる
ことを強いているように見える。

例えば情報や、物資、周囲への同調や、完全な自分。
私たちはそれらに依存して生活している。

依存。

それは見栄だと思う。

見栄を張ること。
人って独りじゃ生きられない。

私たちはいつしか独りで生きようと見栄を張っていて、
けれどそこには限界があるから、
不安がつきまとうから、何かに依存する。

ここのリズムは違う。
人が困っていれば、手を差し伸べる。
自分が困っていれば、助けを求める。

自立なんて独りじゃ出来ない。

独りじゃなくても助け合う中で、自立している。

助け合いと依存はさほど変わらないと思う。

きっと、見栄があるかないかの違い。

ここでは、そんな見栄は必要ないのだと。

そんなリズムが大好きだった。

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足りないことへの不安

自分は何も知らないのだと自覚する。
新しく建てられた近代的な建物が並び、
工事は至る所で続けられている。
海岸には防波堤が何キロと続き、
波の音と浜風だけが、向こう側の存在を知らせてくれる。
誰から見ても新しく作られた風景に、復興を見る。
けれど、そのあまりにも作られた復興に同時に変な心配をしてしまう。
人の心はどれだけ変化したのだろうか、と。

復興とは何なのだろうかと考えていた。

陸前高田を目指すバス。
車窓に広がる工事現場。


「あの日」から9年。
震災と記憶の風化の中で。


病院、役場、集合住宅、綺麗な建物が並んでいる。
これから、どのような時間をこの土地で過ごすのだろう。
高速道路が建設されているみたいだった。
これから、どれだけ多くの人がこの土地を訪れるのだろう。

この土地に何が足りないのだろう。
あとは何が必要なのだろう。

豊かな生活に、綺麗な景色。

勝手に感じる物足りなさは何なのだろうか。

ぼくの不安なのかもしれない。

ぼくもまた「依存」の中にあって、
生きづらさを抱えている。

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ずんだ好きにはたまらない😋




まみや

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