見出し画像

本を読むことは、本と対話するということ

対話をするようになって感じ方が変わったことがある。自分の声に誰かが乗っかって話すとき、「あれ、そういうこと言いたかったんじゃないんだけどなあ」って思っても、殊更に訂正しないでただそこにいると、新しい意味が生まれたりする。本との対話にもそういうことがあるんじゃないか。

毎週金曜日午後9:05〜NHKラジオで「高橋源一郎の飛ぶ教室」っていうのをやっている。だいたい私はこれを土曜の朝ランのお供として、聞き逃しで毎回楽しみに聞いているんだ。6/26(金)の回では、『「読む」って、どんなこと?』とが1つのテーマ。そこで、国語の教科書に作品が載った作家仲間が、「作者の気持ちを考えなさい」みたいな学校のテスト問題で、正解を出せないって話を聞いた。ゲストで詩人の伊藤比呂美は、大学で教鞭をとっていて、学生に感じたことを書かせようと思っても、役に立つ、意味のある答えしか返ってこないと言う。

2人も言ってたけど、これって学校教育の産物だよね。小説を読むことにすら正解を求める。「世の中的にはこれが正解です」を叩きこまれる。そういえば、ある友達が、国語のテストで点数を取れなくて、「人の気持ちがわからない」とジャッジされたようなこと言ってたなあ。

インドの哲学者クリシュナムルティは、「車を運転する」みたいな明らかに断片的な知識は役に立つが、知識では扱えないはずの心理的な要素を含むものも、人は知識として扱いがちだと言っている。国語という題材に乗っかってみると、「漢字」は明らかな知識だけど、「作者がどう思うか」は知識として扱える類のものではない。にも、これを並列で扱おうとするから、ごちゃごちゃするし、息苦しくなる。

国語的な読み方をすると「作者は何を考えていたんだろう」と意図・意味を探ろうとする。それでもって、自分に理解できなかったりすると、「なんだかよくわからない」「難しすぎる〜」ってなる。でも、「言葉との出会い」「言葉との対話」って考えると、わからなくってよくて、ただその言葉の響きを味わって、自分の心に湧き上がって来るものを大切にすればいい。そこには、作者すら想定し得なかった新しい意味が生まれる余地さえある。

高橋源一郎は、読み方は人それぞれだから、実は「読むこと」の方がクリエイティブなんじゃないか、というようなことを言っていた。自由に本と出会い、対話する時、正に、その本と自分にしか作り得ない新しい世界が生まれるんだ。

【あとがき】国語のことだけではなく、学校の教育や社会の中で、色んな場面で正解を求めることが構造化してるなあ、って思う。「正解があること」と「正解がないこと」は確実にあって、それを見極めることを意識すると、すごく頭がクリアになって来る気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?