見出し画像

制限こそが自分固有の生をつくる足場(とっかかり)である

「何をしてる人なんですか?」と聞かれると、「生きてます。」と答える。はたから見たら、自由に生きているように見えるかもしれない。いわゆるライスワークを手放しても、なんとかやって行っていることを書くと、「私もそうしたいけど、持ち家じゃないから稼がないと」「子どもが小さいから、なかなか自由にはできない」「まみーただからできるんでしょ」という声も聞こえてくる。

いや、いや、そういうことじゃないんだよな〜。そもそも私にだって制限はある。17歳の娘と、70歳の母親と一緒に住んでいる。まあ、私がいなくたって、この2人は生きていけると思うが、今は離れる段階ではないと思っている。仕事を辞めてもう2年以上経つので、貯金を切り崩すったって限界がある。

独り身で、私より潤沢に資金がある人なんて他にもいるだろう。しかし、そのように私がより自由(?)になった状態で、「さあ、好きにしていいですよ。なんでも思ったことができますよ。」と言われたところで、一体何をしたものか?全てが思い通りの状態でやりたいことって何なのか?

例えば、今、11/11の文学フリマに向けて、本を作ろうと進まない原稿をちょこちょこ書いている。編集も印刷も、全部自分で手作りでやろうとしている。これがですよ、お金をいくらでも使えて、編集者も、ブックデザイナーも、紙も、印刷も、好きなようにして作れるよ、という状態だったとしたら、それりゃあクオリティの高いものはできるかもしれないが、どれだけ愛着を感じられるだろうか?自由(?)で、何でも思い通りになる世界で実現できることに喜びは感じられるんだろうか?

そもそも、人間には、身体という制限がある。その中で、私は生物学上の女性であり、身長150cm、視力はレーシックでかろうじて両眼1.0であり、手が2本で、足が2本、犬ほどの嗅覚や聴覚はなく、記憶や思考にも限界がある。この身体的な限界が私を私たらしめている。

自分が選ぶことができなかった生まれた時代、生まれた場所、生まれた家族。そして、それとの連鎖で生まれる成長過程における体験と現在の条件は、全く私固有のものであって、他の人には真似しようにも、真似できない。また、私も他の人の固有性を真似できない。

先日、聞いた話で、コピーライティングや広告のストーリー作りのアイディアに困ったら、まず一番初めに目についたもの(「空き缶なら空き缶」)から、無理矢理にでも話を始めるという人がいた。何でもいいよとなると、どれが正解かのような比較が始まってなかなか発想が進まないけれど、「空き缶」という制限が加わるだけで、そこを足場に、発想を広げていくことができる。

あなたが持っている制限は、あなた固有の生を生きるためのオリジナルな足場(とっかかり)なんです。この制限があるからこそ、考えられることがある。人の足場を羨んだり、人の足場に憧れたりすることはあるでしょう。でも、それでは自分固有の生を顧みないことになってしまう。

自分の人生を、他者や社会に受け渡すことなく、十分に生きるためにも、一見、制限と見えるオリジナルな足場から、自分の頭で考えて、生きていきたい。私はそう思うのです。

そして、同じようなことを話してるpodcast。4回までで止まってますが(笑)。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?