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「まみーたってどうやってお金を回してるの?」って聞いても、たぶん、なんの参考にもなりませんよ。

「まみーたってどうやってお金を回してるの?」ってよく聞かれる。と言っても直接聞いてくる人は少なくて、私の友人に間接的に聞くケースが多いけんども。

2年前の春分から、いわゆるライスワークは一切手放した。最初は、「自分の仕事をつくる!」と思っていたけれど、「自分の仕事をつくる」を考える時に「どうやってお金を回すか」という思考がくっついてきて、どうにも、考えが小さくなる。表面的にライスワークを手放してみても、マインドセットと構造を手放してなければ、同じこっちゃ。

とは言え、そのマインドセットを手放すのは、なかなか難しく、行ったり来たり、行ったり来たりして、結局堂々めぐりに飽きて、「もう、いっか、しょうがねえよな」というサレンダーしたのが今である。

私は、虚構の上に生きるのが嫌いだ。「本当のこと」が知りたい。まあ、そもそも、「本当のこと」などというものがあるのかわからんが、少なくとも求め続けていたい。

「お金を回す」ということを先に考えると、「お金が回る」ことを考えざるをえず、「お金が回る」と予想できるものは、既知のものなので、構造に乗っかってしまっている可能性が高い。

いや、私は構造の外に行ってみたいんだ。少なくとも縁(へり)を歩きたいんであって、構造の上に足場をつくりたくない。

「食えなんだら食うな」という言葉がある。本がある。まあ、それだよな。

「食えなくなったら、食わなければいいんだよな」と思うと、物事が実にシンプルになっていく。道元さんだったか、誰だったか「食えなくなったら、その時考える」と言った人もいる。

だいぶ荒っぽい話に聞こえるかもしれないが、自分の頭に巣食っている構造から出るには、「私には」それが一番手っ取り早い。

そもそも、「食べるために働く」というが、本当に「食べる」ためだけだったら、そんなに頑張らなくてもいい。なんたって、食べ物は世の中に余っているし、空家だっていっぱいある。働き手がいなくて困っている地域だってある。

現代の「食べるため」は、多分に「現状維持」や「他の人と比べて」という部分がある気がする。つまり、未来予期から来る予期不安に立脚して行動を決めているわけだ。予期不安は、過去の思考の投射なので、結局過去の自分に縛られていることになる。そんなのって、堂々巡りじゃないか。

大事なのは、本当に「食えなんだら食わない」ということというより、そこに立脚してみると、見える景色が変わり、結果的に行動が変わるってことだ。

あなたは、今日、食べるものがありますか?雨風しのげる場所がありますか?なんなら、話せる隣人・友人はいますか?それがあれば、基本、もう十分でしょう。なんたって、何も持たずに生まれて来たわけなんですから。

「今ある」ことに身を浸せば、自然とエネルギーが湧き上がって来る、どちらの方に一歩足を踏み出したいか、なんとなくわかって来る。私にとっては、そこが大事!予期不安という虚像の足場からは見えない場所に向かうことができる。

そうは言ったって、まみーたは恵まれてるじゃん。という人がいるでしょう。そうよ、私は恵まれているわよ。持ち家だし、母親は自営で、私はそれを少しお手伝いしているし、娘も高校やめちゃったからお金かからないし、家族も理解あるし、吐き出し続けているが、会社員時代の貯金もまだ残ってる。

でも、上を見ても、下を見てもキリがない。っていうか、上とか下って話もおかしい。これが、私に与えられた固有の生きる条件だ。むしろ、恵まれていると思うからこそ、自分が振り切らないでどうする、と思っている。

45年の生きる過程の中で、お金がなくて、毎日すいとんばっか食べたり、ツケで食料品を買ったり、それもままならず、わざと食事時に友人の家を訪ねて食べさせてもらっていた時期もある。でも、そういう時にこそ、湧いてた知恵があり、生きる力が高まった。

私は「生き延びたい」んじゃなくて、「生きたい」んだ。私に与えられた固有の条件を味わい尽くし、私しか歩けない道、生きられない生き方をしたいんだ。

なあんて、ちょっとかっこいいこと言ってますが、本当に食えなくなって泣く日が来るかもしれない。まあ、それはその時だ。その時に何を感じるかは、その時になってみないとわからない。毎度毎度、事態に直面して出会う自分が楽しみだ。

これが、現時点での「まみーたのお金の回し方」です(笑)。








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