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7月26日 旅の非日常。

今朝の体重65.6kg、体脂肪13.4%。

昨日は家のそばのネパール・インド料理店でカレーとナンをたらふく食べた。
ナンは実はネパールではほとんど食べない、とか、カレー店はほとんどネパールの方がやっている、とかの情報があったのだが、そんなことの前に美味くて安くて腹15分めである。

前に一人で来て、ハニーチーズナンとプレーンナンを食べたら、腹20分めとなりしばらく動けない世界であったが、今回はナンを持ち帰ったので、なんとか無事であった。

持ち帰ったナンは、今日の昼、散歩しながら歩き喰い。行儀わるいのだが、出来るだけ長距離を歩きたいので、自己判断で行っている。まあ、ここ東京で知り合いがいるわけでもなし。。

まあ、しかしこのカロリーと量を毎日食べるとこれは太るだろう。1食でこの太りだ。10日あれば下手すれば10kg太るかもしれない。

今は体重65キロ前後だが(これでも2キロは太い)、人生では75キロまでいったことがあった。春日氏は同じような身長で75キロあるという(体脂肪11%だったかな)ので、私もすぐそこまで行ってしまうかもしれないのだ。

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旅の非日常について。

会社での出張が結構好きである。
前は海外出張がよくあったのだが、今の会社は国内向けの会社なので、海外に行くことはなくなった。

結構移動時間が好きである。

飛行機であれば、特に海外であれば早めに空港に入るし、機上の時間も長い。携帯を見てしまう時間も多いが、日系の航空会社でなければ日本語字幕の映画も普通はない。勢い本を読むことになる。

機内誌や雑誌もあるが、読み切ってしまえばあとは読むものがなくなる。そこでもって行った本を読むことになる。なんとなくだが、飛行機の上で読む本は妙に集中力が上がる気がする。非日常、だからだろうか。

新幹線でも読むが、なんというか空中に浮かんでいる、という感覚が、地上を走る電車で読むよりも個人的にはより非日常である。

四方田犬彦さんの”人・中年に至る”に、旅は小さな死である、ということが書いてあった。

旅に人が出ると、日常の中でその人に会っていた人にとっては、目の前からいなくなるわけで、それはその人に喪失である、と言える。勿論普通はそのうち帰還する。

つまりはコンパクトで、コントロールされた形の、矮小化され安全化された”死”であるのだが、でも喪失という意味では死とつながる。

”旅”という形で”矮小化された死”の中にいる旅人は、いわば死の中を疑似的に旅している。
今は携帯で結構つかまってしまうのだが、それでも携帯が(海外の場合)時差によりかけにくくなるし、出られなくともしょうがない、という世界でもある。

出られなくともしょうがない、という場は、日本にいればない。しらず”いつ電話かかってくるか”というストレスの中を人は生きているのだ。

これは大きな解放感である。今は世間的には、休みの間に仕事の電話をかけるのはあまり良くない、という雰囲気がやっとすこし出てきた気もするが。

そんな解放感の中で旅をするのだ。疑似的な死の中で。そこでは自身は半ば実体を持った”魂”に近くなる。

魂になった状態で、本に込められた作者の魂と対峙する。。
本の読み深度が深まってしまうのは、いわば当たり前と言えるだろう。

そんな経験をすると、旅の移動が楽しみになる。長い空路、時差があって眠たくしんどいときもあったが、酒をがぶ飲みしてぼんやり文字通り空中に浮かんでいることは、結構楽しかった。

今もたまに国内で2時間位飛行機で移動することもある。あの時差まみれ、酒まみれのフライトとは全く違っているのだが、それでもフライトは結構好きである。

(また行きたいですねー)

人、中年に到る
人、中年に到る
作者:四方田犬彦
白水社
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