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2月15日 個人の(結果的な)存在理由というか存在結果的価値について。


個人の自己認知は人生の閉回路の中のゆらめきにすぎない。
それが、なぜ個人の(判断ではなく)偏見が、彼の歴史的なありようのリアリティを構成しているかについての理由なのだ。
ハンス=ゲオルグ・ガダマー


ガダマー、というと、我が敬愛する池田晶子さんが2001年哲学の旅、と称するムックにて、実際に訪問され、会話された哲学者、という風にまずは思う。

池田晶子とガダマー、当時の世界の2大哲学巨星の邂逅で、実はあったのだなあ、と20年後の今、思うのである。

ガダマーの言、一読意味がよくわからないが、私の個人的な感想のような読みは以下の通り。

まず、個人とは閉じた存在である。

基本的には、自己の感覚、自己の身体、自己のイメージや精神の中に限定された存在だ。これは(自分は世界とつながっている、とリアルに感じている方があるやもしれないが、私が今まで出会ったかぎりでは)すべての「生命」と呼ばれる存在に共通であろう、と思っている。

その中で、自己認識とは、自然とことん「個人的」であるしかないし、個人的であるということは、ゆらぎ、不完全さ、不十分さ=ゆらめき、につながるだろう。

ゆらめき、とはあるいは実体のない幻影のようなものにもつながるだろう。あるいは精神の「ゆらぎ」。

だが普通人は自分、というものを、なんとなくもっと強固でしっかりしたものである、あるいはあってほしい、という感覚や願望の中にいるような気がする。なんとなく、そういうデフォルト、というか基本設定のような感じであるように思う。

だが、そうではないよ、とガダマーは「人の定位置をゆるがす」。

しょせん、ゆらぎ、ゆらめき、かりそめのものだ。


なんとなくそうでないようにあってほしい、と精神の中で願い思ってはいても、その裏の「魂」は「そうではない」と、わかっているような気もしている。

だがそうしたゆがんだ、自己否定に満ちた、「偏見」とよぶべきあまり美しいとも思えぬものこそが、実は結局その「固体としての魂=個人」が存在したことの価値、というかユニークさを生むものだ、という逆説性。

そこのところを、希望をもって指摘してくれているのが、

ガダマー氏の温かい哲学=人生感である、


というような勝手な読みをしております。

(池田さん、ふるさとにてご達者でしょうか)






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