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5月28日 詩と散文。エゴとドクサとDNA。

本日の体重65.1kg、体脂肪11.2%。やはりベスト体重は64キロくらいかな、と思いつつ、今日も飲み会。また体重アップとなるだろう。

詩と散文の差を考える。

散文、といってもここにエッセイなどを織り込めば、詩を読む心と少し近づく気もする。散文詩、というものもあったと思う。

死んでしまったものを土にうめ、そこに一つの石ころを置くとしたら、真上に置くのはなぜだろうか。

貞久秀紀 真上 海鳴り 36号より 編集工房ノア

日々の買い物や食事、体脂肪やら体重やらをごちゃごちゃ考えているとなんというか心が落ち着いたという感じではなくなる。だがそこから禅でいう一歩一歩を意識するようにあゆみを、心の動きを気にして心を整えていけば、すこしずつ詩を読むような気持ちにソフトランディングできてくる気がする。

我が魂、というものが仮に我が肉体、に住まうものだとするのであれば、住まいである我が肉体をできるだけ健やかには保ちたいものだ。できれば、春夏秋冬の変化を感じて、毎日の太陽や雲や月や風を、敏感に感じてそこから喜びを得たいものだ。

まあ、なかなか難しい。

まわりを見れば老後2000万問題に新NISAだ。まずは我が将来をどのようにすこしでも安堵できるものへともってゆくのか。そんなことを考えているとまたぞろ心がざわめく。

欲しいものや食べたいもの、それが全くないとそれはそれで生きる目的もない、という気がするが、少し掘っていって、ではなぜほしいのか、そう思う気持が起こる理由は、といったことを見つめてゆく。

見つめてゆくと、その「欲しい」はなんというか動物的な、DNA的ななんやかんやで自動的に出てきている気がする。エゴや他人との比較や同調圧力の(それが全部悪いわけではないが)せいではないか、とみていくことも必要だろう。

そんな偉そうなことを言っても、時計をヤフオクで買いまくっている身だが。

版画を始めて9年にもなる。仕事の合間なので、微々たる作業量、まさに亀の歩みのようではあるが、いろいろな思い出をありがたくも頂く機会となった。

だが一方で公募やらにトライしてみると、なんというか「評価」という他人の目が気になるようにもなる。他人の評価をどこかで気にしながらの創作、これはまあ、当たり前と言えば当たり前なのであるが、ここに「媚び」が入りすぎると、作っていて本当に楽しいのか、というようなことも思ったりする。

媚び、の方向が自身のやりたい方向とどんぴしゃ、ということもありうるだろう。多分そういう方向で、作りたいものが媚びでもあるが、媚は後付け、という位がいいのだろう。

なんというか、ここ半年はすこしそのあたりを考えるべきときかなあ、などと感じている。9年もやったら個展でもやるか、となってくるが、「本当にそうなのか」と少し判断を保留しているところだ。勢いも大切、だがどこかに「義務感」ありすぎないか。

私は職業として版画を創るものではない。グループ展などで気に入って頂いて1枚2枚ご購入いただいたときは、本当に嬉しかったが。だがそれで「売らんかな」みたいな気持ちになると気持ちが曇るような気がするのだ。

詩と散文の関係もすこし似ているかもしれない。極限まで研ぎ澄ますことででるつぶやきこそが詩であろう、と思っている。

哲学エッセイでわかりやすく哲学の心を伝えられた池田晶子さんは、詩人であるひとに「あなたは詩人だ」と評された。詩人に詩人と称されるということ。その姿にもまた、一読者たる私は単純に感動したのであった。

(こうして思いまどうこともまた、よし、ということもあるかもしれませんが)

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。