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生まれてから死ぬまで生きる

昨日は雨だった。今朝は晴れ、明るい朝です。
今日は、亡父の誕生日です。
えっ・・ア、そうか・・
誕生日でした・・なのでしょうか?わからん。
亡くなったのだから、
そこからは 新たに 始まるよ、と考えるのか・・
そうしよう!そのほうがいいと思う😊

生まれてから、亡くなるまでを生きる。
私の認識では、生きてるってことは、その途中ですよね。

時間はない、とか、ある、とか
宇宙は、01でシミュレートされている仮説やら、
その恐ろしく無限に近い可能性、つまりは偶然を記述する、
理論、観測、実証に挑んでいる猛者がおられるようですが、

我々は、生まれたら、死ぬまで生きる。
当たり前・・です、繰り返してスミマセン。

鳥もクマも、犬も猫もアリも、庭のジャスミンも、そうですよね。

生きる道のり、の一部分で、
私は父の子として、父の傍らにいた。
可愛がってもらった。守ってもらって大人になって
なんとか独り立ちした。
伴侶を得て、私もまた自分の子と共に生きることになった。
そして、ある時
その子らは独り立ちして、私の傍らから遠ざかった。
でも有難いことに
夫は今も、道中を 共に歩いてくれている。

生の時間の中で、何であれ、だんだんと老いていくが、
親と子は、それぞれが生きる過程のどこかで
離れているのだから、
老いたから、助けが必要だから、またムリクリ引っ付きなさい、
は、やっぱり、どうも難しいのではないか。
子だけで介護することが難しいのは、その意味でも
自然なことだと言えないだろうか?

別の道を生きている双方にとっての厄介さ、があると思う。

しかし、生きている以上
なんとかして 死ぬまでを生きなければならない。
誰かの、何かの助けを得ながら、自分の足で、お終いまで行く。

父は見事に、最終的には、自分の道を、自分の力で 
最期まで歩ききったと思う。
ありがとう、と伝えたいよ。

十分老いてからの生きる道は、父には特別歩きにくかったようだ。
最期の方では、母を、連れ合いと言うよりは従者としてしか
考えていなくて、元々の独断的傾向が強まって、私も弟も閉口した。
でも、
老いることが、どんなことなのかを見せてくれた、と思う。

私自身の死ぬまでの道、これからの時間は
父と比べても、一般的にも
お金も能力もなく、人徳もないのだから
相当に凸凹の、みっともないものになるかもしれない。
が、何であれ受け入れなければならないし、
可能ならば、どこの誰に、どう助けてもらうか、を
考えて・・・可能ならば
ちゃんと、自分で最後まで歩く。
そうでなければ、身をもって教えてくれた
父に申し訳ないですもんね。

生きているその間、生物に観察される様々な変化を、
当該生物の、主に繁殖活動への関与において、
成長と老化、と呼び分けるようだが、
英語だとmature,aging,かな?
仮にナンボでも時間があって、
途中で、生き方を何回もリセットできたら、
この認識は違ったものになるのだろう。
限られた時間であれ、一つの形では在りえないのだから
老いて不便になることも、助けが必要になることも、
考えようによっては、課金とリセット。

母は、今も施設にいる。
私が、新幹線で2時間かけて会いに行くのは、一月に1度程度。
必要があれば、行くようにしているが、
毎日の様子は、詳しく解らない。
そこは訪問自由の施設で、私が見たところ、入居者さんたちは
概ね穏やかに問題なく暮らしていて、母も馴染んでいる。
が、
電話すると、お菓子を「また、盗まれた」と言う。
でも、家に帰りたいとか、嫌だとか、そういう話にはならない。

元々、めんどくさがりで、家の事をするのが嫌いだったし、
世話になるほうが楽だーと思っているみたいだ。
何でもすぐに忘れるが、今のところ身の回りのことはできている。
電話が難しいのと、元々すごい消極的であったところに、
父にずっと支配されていたために、何も考えないようになってしまっていて、自分がどうしたいのか、自分の考えは探しもしない、それでいいことにして順応していたのだった。
そこに、認知症でチンプンカンプン。
父のことも忘れているし、現状楽だからここにいる、くらいに思っているかな?
が、総じて、以前とあまり変わっていない、有難いことに。

ごく自然に、生き方がリセットされているようにも思える。

母が、自分のこれからの時間をどう思い描いているか、については
少し不安に思ったりはしているかもしれないが、
ほとんど何も考えていない、だろう。
一人になったことを特別悲しんでもいないし、私に不満をぶつけることもない。
少し危なっかしいけど、自分で歩こうとしていると感じる。

だから、
私は、私の道に居て、私の道を進みながら、母を見守っていきます。
できる限り、会って顔を見て話をして。
だからといって?
全くエラくはないです、立派でも献身的でもない、はい。
色々考えて、悩みもし
こんな、当たり前なことに 行き着いただけ、です。

親の介護で無理はしない。様子見も良し。自分中心で良し。

基本、自分の道を最後まで歩く、死ぬまで生きるのは、自分。
偶然、子となり親となり 一時を共に歩んだ者たちの間の
繋がりや
距離的に近くにいるご近所やコミュニティの中でのやり取り、
それらの偶然は
個々の人生の 道の形状や歩き方に影響するけど
生きる人が、主体的に歩くということは変えられない。
老いることは
誰かのせいで、歩けないということではないから。

実際の場面で、
どう助けるか、何ができるか、という対応はまずは身内になりますし、
手続きも大変で、心配もありますが、
最期まで生きる、それは
それぞれが歩くこと、だし そうあるべきなんだと
皆が思っていれば、ちょっとだけ
現時点からの視界が開けるかなあ、
そんなことを
父の生まれた日の 朝から考え、昼も過ぎるまで
当たり前のことを
何度も述べて、くどくてほんとにスミマセン。

なんか、肌寒いけど、これから暑くなるでしょうと言うことで
皆さまお体にお気を付けください。
まもなく還暦のおさんぽでした。