夢は時めくためだけに
こんにちは、siroです。
秋の空って、ぐーっと奥まで広がっていて素敵ですね。
夕焼けとの調和も綺麗。
ところで本題ですが(へたくそか)
最近の私の動向として、
”仏教的な考え方を暮らしに取り入れたい”
っていう流れがあります。
で、仏教において欲望(渇愛)は、苦しみの素と考えられています。
自分の中で趣味の在り方がぐらついている時に”そっか!”と思って以来、夢とか目的、目標を抱くのをやめました。
実際、苦しいことも多かったですし。
あと、人生に対する無意味感も、夢嫌いに加担しました。
自分は人より出来る方じゃないし、客観的に観て人生に意味なんてないし…
みたいなことを考えすぎたせいで無意味感が体に染みついて取れなくなっていました。
それから、意識的にやめてたゲームとかyoutubeを観てゆっくり過ごしたりしましたが、
何かが違う、何か苦しい、何か寂しいし何かに焦ってる気がしてました。
そんな日々を過ごすうちに、
どうやら私は、暮らしに方向性を定めないこと(動かないこと)は難しいらしいとわかりました。
自分の本来の在り方からかけ離れてるからだと思います。
自分の人生観ぐらい、自分に寄り添ったものじゃないとですね。
例え頑張ろうとするときも、あくまで自分らしくいれる範囲で、ですね。
であれば、何らかの夢が必要。
でも、夢中になれる夢なんかないし、どうせ何も成しようがないし…
って、
そんなことを今朝も考えながら、ぼーっとした頭でnoteを読んでたら、
「夢ってファンタジーみたいなもの」
っていう文章が飛び込んできてぴんときました。
ましろさんの記事です。(ぱっと夢とファンタジーを繋げられる洞察力!!)
そっか、所詮ファンタジーなんだ、ファンタジーでいいんだっていう。
夢は本来、手の届かない場所にあるもので、掴んだ瞬間にしぼんでいくもの。ほんとに幻想みたい。
ただ我々は、その幻想を追いかけることを楽しんでいるに過ぎないと。
だから、その夢に現実性とか理由はガン無視で大丈夫。
歩く方向だけ、なんとなく。
マップがあれば目的地を定めるけど、
コンパスなら探検するしかないですよね。
ってことで、やりたいこと 夢(幻想)を書き出してみた。
・人間性
侘びの心持ちで慎ましく、落ち着いて暮らすこと
あわよくば自分を好きになること
・趣味
絵:”描ける自分”になること
描く・観る悦びを嗜むこと、誰かと共有すること
→AIや強力なコンテンツが蔓延る世界でもなお、絵が抱える歴史や楽しさをみんなと分かち合うこと。自分がそうしてもらったように。
文章:こんな世界でもなお、こんなバカ真面目に暮らそうとしてるんだから記録ぐらいとっておきたい。
それがもし、誰かにとってほんのりとした希望にでも成り得るなら、まだ自分がここにいる余地はあるのかなって。
自分がそうして希望を授かってきたように。
あと、小さい、拡げる趣味として
美術、仏教、心理学とか、
小説を書く、音楽を楽しむ、全国のお餅を食べる
みたいな、種まきもできたらな。
って感じです。
”何をしたいかじゃなくて、どうありたいか”
色んなところで耳にするこのフレーズが、ようやくわかった気がします。
”夢を持たず、その瞬間にしたいことをしろ”ではなく、
心の時めくような夢を持つことは素敵だけど、
結果に執着しすぎたり自分の心を無視して突っ走っても息切れするだけだよっていうことなのかなって。
あと、夢についてもう一つ。
つい夢の価値、意義について再考しては無意味感にさいなまれて挫折することって、結構あるかと思います。
だから、夢の客観的な価値や意義を問わないこと、完全に身をゆだねて信じ切っちゃうことが大切なのかなって思います。
客観的な意味なんて元々ないですしね。
あるのは時めきだけです。
そしてどうしても夢にへきえきしちゃったら離れましょう。
寄りを戻してもいいし、完全に分かれたとしてももいい種まきです。
赴くままに、のびのびと。
何に一番どきどきしてるか、よく耳を澄ませながらまったりと暮らしていきましょう。
thank you for reading~👋
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