見出し画像

『コンビニ人間』と、多様性との付き合い方

私の『コンビニ人間』に対する愛(軽度)と、多様性についてノリで考えたことをつらつらと書いてるだけで3000字弱いっちゃってるような記事です。
違うなとおもったら気軽に引き上げちゃってくださいね ^_~。



『コンビニ人間』の著者、村田紗耶香さんとは、国語の教科書ではじめてお会いしました。
それは『気持ちよさという罪』というタイトルで、多様性について独自の視点で書かれていました。
以後、村田紗耶香さんに興味を持ち始め、
つい昨日『コンビニ人間』を読み終えました。
ページ数が少ないっていうのもあるけど、
何より休憩の入れどころがわからなくて、ふた息で読みほしました。

読み終わった後の私の精神状態はまるで、
今の時期の夕方6時、休日。蒸し暑い中、エアコンや照明を付けてない部屋で、
何も落ち込むような出来事がないのに、ぼんやりとした人生に対する無意味感を感じてるときのあの感覚と同じでした。


そんな、この小説に押し付けられたもやもやが私にとって直接背負えるようなものじゃなかったから、
3000字強の文字たちに肩代わりしてもらいました。
乱雑に打ち殴った文章だから、ここには載せれませんけどね。
ふぅ…。


無理やり言語化してしまえばこの話は、
「”普通”がわからない主人公が、コンビニで”普通”を再構築するも、それが破綻して社会に苦しめられる話」
つまり、世の中の普通に対する違和感をテーマにした小説です。

私がこの小説でえぐいなぁと思ったところは、
”異常”な主人公にはほとんど共感できないのに、客観視点から見た状況のヤバさに困惑して、
あぁってダメージを食らえるところだと思います。
主人公は主人公で、読者は読者。それが重ならないがゆえに、主人公のことについて頭で考えさせられるんですよね。
別に世界観が暗いわけでも、主人公が暗いわけでも、何なら登場人物に悪い人はいないのに、淀みがずっしりと乗っかってくるような読後感。

具体的なシーンで一番えぐかったのは、
白羽さんと主人公と妹のところ。
白羽さんがぼろっぼろの助け舟を漕いで主人公に助け船を出しに行くような姿勢が、ほんとに見ててつらかった。
映画なら泣けてしまうのかもしれないけど、小説はなまなましすぎて涙も出ませんでした。
ここで私まで泣いてしまったら、
白羽さんがもっと苦しんでしまうような気がして。
※私は小説の読者です。

とにかくいろいろ衝撃的なので、
まだの方はぜひ体験してみてくださいね。



して、こんな本を読んでしまったら考えるまで気が済まない。
ということで、少し多様性について自分の思う結論を出してみました。


テーマ:社会においての多様化をどう進めるべきか。

まず、前提となる”多様性”について。
多様化の最終目的は、社会をより良い方向に動かすこと。
その中でも特に、
マジョリティからマイノリティまでの意見を聞いて、それを社会にどう反映させるか
という分野のことを多様化と呼んでいると思います。

つまり、多様化といっても、
マイノリティを重視した政策は間違いで、
社会全体を見て最も利益が最大化する方向へ運ぶこと
が本質的な意味での多様化です。
つまりマイノリティの意見を聞きすぎるような多様化は、
利益を最大化する"過程"として非常に効果的かもしれませんが、
多様化を目的にしてしまうのは短絡的です。
多様化は豊かになる過程であり、目的ではありません。
これを間違えると、サイレントマジョリティを無視したりすることに直結します。

そういった、豊かさに対するアプローチという
非常に広義での”多様化” ”多様性”
ということを前提としたうえで書いていきます。

例えばトランスジェンダーの問題でも、
そういったマイノリティがいることを認知したうえで、例えばそれに配慮した施設にするとか。
それらの行為の最終的な目的は社会をより良い方向へ動かして利益を最大化することです。

多様性の問題を扱うとき、必要なプロセスとして、
問題の認知→意見の収集→思考→導入(発信)
これの繰り返しによって多様性は培われていきます。
これをするのは私たちひとりひとりであり、
例えば
トランスジェンダーの問題みっけ
(問題の認知)
 ↓
Xとか本で見てみよ
(意見の収集)
 ↓
私に言わせればこの問題は
(思考)
 ↓
ポスト:○○という考え方は絶対広げるべき!!
(導入(発信))

みたいな。これが多様化を促し、
よりよい社会になるための土壌となります。

ただ、この時に問題となるのが
思考の部分です。
これ、社会の話として考えると、
「誰の思想(思考の結論)を取り入れるか、どうやって決めるんだ。そこにも主観性が現れるから、結局差別になりうるのではないか。」
という反論が来るでしょう。

まさにその通りで、この思考→思想の選択というプロセスを踏まないといけない以上、必ず差別が起き、社会全体の利益が最大化することはありません。
そしてそれは、大きな不満を巻き起こします。

でもそれは、たとえ社会全体の利益が最大化しても、状況はたいして変わりませんよね。

これが社会全体の利益につながるから
と言って神様に殺されても、なんか納得がいかないです。
それがたとえ、社会全体の利益になるとしても。

だから、完璧に組まれた理論を否定する
っていうのも全然okなんです。
ただ、一般的に支持されてる理論を理解したうえで、
自分が信じたいことを信じる
というのが私たち個人の目標になります。
考え方も生き物と同じで、弱いものは淘汰されていくから、
みんなが自分の信じるものを広めていこうとすれば、必然的に社会全体の意見が現れてきます。

その社会の意見をみんなが認めたうえで、
「それでは地球の皆さん、あとは好き勝手やってください、どうぞ。」
っていうのが人間という生物の在り方なので、
私たちがするべきなのはあくまで、自分の意見を持つ、それを広めることまで。
それ以上の、社会がどういう意見なのか、その結果社会がどうなっていくのか
は社会が出した結果でしかなくて、自分にはあまり深い関係はないから気にしても仕方がありません。

となると、あとはどうやって、最も得策っぽいものを自分の意見にするのか。
現代社会で考えてみると、今はちょっとマイノリティが声高になりすぎてしまったのかな?とも思います。素敵なことですけどね。

ってなると、低品質のネット民が感情で考えたような破綻済みの論理を信じる人が増えちゃう可能性もあり得ます。
今はマイノリティに配慮できてる一方、
水泳大会の女子の部におじさんが参加するような
いわばハイリスクハイリターンな世の中になっているのだと思います。

そんなおじさんが増えないために、
やっぱり"読書をする"っていうのがすごく大事になるのかなと。
特に、声明のある人の本を読むということ。
その発想自体が社会を硬直化させるといわれると確かにその通りなのですが、
ノイジーマイノリティが今までにない音量で叫び続けている時代において
う少し読書をして、物凄く強くて考え抜かれた思想をインプットし、自分なりに再考して、そこに妥当性が見いだせればそれを布教する
みたいな人種が必要なのでしょう。

でも、インプット、アウトプット、考えることをしない人が悪というわけでもありません。
世界は所詮自然であり、成り行きでなるようになると思います。
だから、社会はこうあるべきでしょっていうのを考えるのは趣味としていいかもしれませんが、
周りにやかましいことをいうのは避けた方がいいかもしれませんねー(内省)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?