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手を離し、離されることの大切さ。

自分の母親は、過保護だと思う。

心配してくれているのは分かるけれど

もう少し、信頼してくれても良いんじゃない?って思ってた。

離してくれない手を

どうやったら、離すことが出来るかだけを考えてた。

目の前にある、楽しいこと

大好きな人との時間を、邪魔されたくなくて

嘘をついて遊びに行くこともあったし

夜中に縁側から抜け出して、彼氏に会いに行ったこともある。

女友達の家に泊まりに行くと言って

彼氏の友達の家に泊まりに行ったこともある。


嘘をついて泊まりに行く日、

父に、駅まで送ってもらう車の中で

「ちえこ、お母さんの料理は料理じゃないけん。」

って突然、言われた。

「娘が嘘ついて、泊まりに行こうとしているこの瞬間に

その話する必要ある??」って思ったけど

「え、じゃあ、今まで私が食べてたのは何??笑」

と答えながら

筑後川にかかる橋を無事に渡り終えることだけを考えていた。

ここで、バレたら、駅まで送って貰えない。

無事に電車に乗るまでは、絶対にバレちゃいけない。って

橋を渡る間中、川面に浮かんで漂っているカモを見ていた。


きっと、人によって程度の差はあれど

こうやって、少しずつ、親の手を離していくんだと思うし

離せない親の手を、嫌が応にも振りほどいて歩いて行こうとする。

いつまでも、子どもじゃないんだって、外に向かって叫びたいんだ。

心配している親の心を知らず

今の目の前の自分が大事にしたいと思っていることに

時間を費やすことが、大事だったんだ。

そんなことを観終わった瞬間に思い出した。


でもさ、この映画に出てくるお母さんだって

苦しかっただろうなぁ。

同級生のお母さんが、娘と当たり前にしていることが出来ない。

って思い込んでしまってる。

ほんの少し、ほんの少しでいいから、自分が見ている世界が

どんな世界になっているかを見つめ直す時間があったら

もしかしたら、自分の見えている世界を変えられたかもしれないし

今すぐにでも、娘との夢見ていた時間を

手に入れられるかもしれないのに、それが出来ない。

他人が、全くの赤の他人が、もう既に出来ているのに

自分の娘と洋服を買いに行ったり、一緒にお化粧したりして

楽しんでいるのに、お母さんは

お母さんだから、お母さん過ぎるから、出来ない。

何か、お母さんの中に、こんなもんだよね。っていう諦めと

こんなこと求めちゃいけない。っていう自責の念みたいなものが

絡み合ってしまって、見えなくなっているのかもしれない。

そして、その自責の念と、ちゃんと自分が育てないと。

っていう過剰な責任感が、娘のことも縛ってしまっている。


その縛りが解けたときに、お母さんと娘に訪れたのは

罪悪感との決別だったのかな。

人は、誰しもが罪悪感を抱いて生きていて

でも、その罪悪感って、本当に必要なのかな?

って思うこともとっても多くて

自分を罰していることで

自分の柔らかくて、傷つきやすい部分を守っていることもあって。

でも、もしかすると

その柔らかくて、傷つきやすい部分は

外に出たがっているのかもしれないな。って思った。

何をどうしたら、外に出たことになるのかは、わからないけれど

最後のシーンの二人が抱き合うシーンを観てたら、そんな気がしたな。

「ごめんね。」と「ありがとう。」を。

そんな感じ。

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