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シンプルな言葉 それを考える私の長文

先日、娘と「人との関係性」について話していたら、
「お母さん、話長い、しつこい」
という言葉が返ってきた。

聞いていた旦那さんからも、
「長く話したからって、人には届かないよ、むしろ逆効果だよ」
という意見をもらった。

そんなことがあった翌日、たまたま読ませていただいた「小太郎」さんのnote。

そのときの私にドンピシャで心に刺さる投稿だったことは、間違いない。

私のコメントにもらった小太郎さんからのリプにも、さらに「そうだよなぁ」と頷かされた。

自分が熱くなって、どうしても伝えたい、わかってほしいという気持ちで、どんどん話が長くなる間、私はその相手の時間を奪っていたわけだ。

文章と言葉は違う

そんな私は、noteにおいても、長い文章になることがほとんどだ。
なるべくシンプルに伝えたいとは思っていても、どうしても長くなる。
読んでくれている方々には、申し訳ないところだ。

でも、文章というのは、相手に読むか読まないかを選んでもらうことができる。
読み始めたとしても、途中で読むのを離脱することが出来る。

それがネット上の電子データであっても、書籍という物理的データであっても、いつも決まった場所に存在し、自分が読みたいと思ったときに読みにいける。

しかし、会話の中での相手の言葉、話というのは、「今」という時間しか選択肢がない。
また、「聞かない」という選択肢を選ぶためには、相手に対し、話を止めてほしいことを伝えなければならない。

内容が、自分としては興味や関心が薄い、それが今の自分に重要かどうかわからない、そんなものであれば、耳から入ってきても、ただの音としてしか処理されず、脳にしっかり入ることはない。

そんな前提、わかっているはずなのに、親という立場になると、どうしてこうも熱く語ってしまうのか。
反省しかない。

認めること 見守ること

「小太郎」さんの投稿で大事なところは、

アドバイスではなく、一言「これでいいのだ」という肯定、認めてもらえること、静かに見守られること、ただそれが欲しいというときもある、

という観点で。

本当にそれは、私自身子どもの頃に感じたことのある思いで。

そこは「シンプルに話す」以前に、人間にとって、とても大切なことだ。

しっかりと心に留めて、初心を忘れないようにしたいことだ。

しかしそれと同時に、今回、すぐ話が長くなる私は「シンプルな言葉」を話す、ということを掘り下げたくなった。

シンプルに話す を検索

「シンプルに話す」で検索して、下の方のブロクを選択し、拝見した。

伊藤羊一さんの「一分で話せ」という本のレビュー、本のポイントや、ご自身の見解が書かれていた。

本は興味があるので、これから手に入れるとして、まだ読んでいない私には、これは企業での「プレゼン」ありきなのか、私が求めている「シンプルに話す」というイメージにガチッとはまるのか、まだわからない。

でも、ブログ主の方(シマウマさんとお呼びしたらいいのかな…)がまとめてくれていた下記のポイントは、一般的にも「シンプルに話す」ための大きな基本だと思えた。

・人はあなたの話の80%は聞いていない
・聞き手をイメージせよ
・結論+根拠+たとえばで考える癖をつけよ

人が聞いているのは話のたった2割

人は話の80%は聞いていない…入ってくるのはたったの20%…

半分の50%どころか、40%でも30%でもなく、20%!

数字データが頭に入りやすいということは知っていても、こんなに打撃を感じることがあるだろうか、というレベルで、私には衝撃な数字だった。

そんなにも人は人の話を聞いていないのか。

私は何もわかっていなかった。

聞き手の気持ちになる

普段、物事や出来事を、なるべく主観だけでなく、俯瞰、客観的視点で見るように心掛けてはいる。

しかしそれは、自分に対して起こったことや、自分の周りの物事を、自分のために判断する際には有効、という話でなのであろう。

相手がいて、会話をするときには、客観的視点をもつこと、俯瞰すること、だけでなく、相手の目線、相手の主観から見てみること、想像してみることが大事だ、ということなのだろう。

生まれてから、まだ私の何分の一かしか過ごしてきていない娘の、それでも今の人生を、自らの意思で一歩一歩生きている娘の視点。

私はそれを、俯瞰はできていても、10数歳の女子小学生としての立場から見てこれていたか、と聞かれれば、出来ていなかった、確実に。

結論・根拠・具体例…説明文読解と同じだ

自分の主張がいかに熱かろうと、人が興味を持たなければ、内容が複雑であれば、相手の立場が分からなければ、伝えたいことは、その2割どころか、それ以外しか伝わらない。

さらに、長いことによって、よけいに興味を削ぐ。

長く語りたい話の中から、自分が何を伝えたいのか、その結論をしっかり自分で把握し、まず結論から伝える。

次に根拠を3つ伝える。

分かりやすくするために、具体例を伝える。

しかも、中学生でもわかるレベルの簡単な言葉で。

こうして書いているうちに、あぁ、文章と会話は本当に違うのだ、そう実感した。

そして、最近娘の勉強で見ている「国語・説明文の読解」でやること、それこそが、シンプルに話すための鍵だ、と知った。

言葉に出す前に要約する

文章は時間をかけて、何度も読み返したり、線を引いたり、わからない語句を調べたり、そういうことができる。

そこから、主題(結論)を見つけ、根拠を見つけ、具体例を読んで理解する。

しかし、会話で、それを耳から入ってくる一瞬で出来る人なんて、皆無だ。

だから、最初から要約した文章だけを伝えなければ、理解してもらえるわけがないのだ。

noteで自分を鍛える

相変わらずの長文にはなったが、「シンプルに話す」ことの基本、自分の頭で再構築出来た気がする。

こうして長々と書くことは、私の理解にとってはとても大切な過程だ。

(読んでくれている方々には、本当に申し訳ないです…)

noteを何のためにやっているか、と聞かれたら、私の場合は、まだ、人に何か伝えたい、与えたいから、というレベルではなくて。

自分が何を感じて何を思っているのか、それを知ったり、考えを再構築したり、学んだり、そのために、つまり自分のためにやっている。

だからこそ、長い。

noteにはたくさんの方のたくさんの素晴らしい文章が、日々たくさんあがってくる。

自分を鍛えるために、客観的視点、いろんな人の視点を学ぶためにたくさんある。読ませてもらおうと思う。

そして、人に何か伝えられたい、人に何か与えられるレベルになれたとき。

シンプルな言葉で、シンプルな投稿をしてみたい。





















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