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デジタルネイティブに生きることと、受動的なコンテンツ消費


ー18歳、デジタルネイティブ、携帯デビューは10歳(?)。
生まれた時から身近にあった、スマホ、パソコン、テレビの電子機器。それらとの向き合い方について感じたことがあったので、書き記しておく。

個人的な話からすると、僕は、多分携帯依存症に含まれると思う。何をしててもyoutubeは流しておくし、起きてすぐ携帯みちゃうし、スクリーンタイムなんて下手すれば6時間を超える。(嘘つきました、本当は8時間ぐらい)。僕だけじゃなく、僕と同世代の人は、tiktok、YouTube、instagram、twitter なんかをみながら一々の大半を四角い金属の塊と睨めっこしながら生きているのではないかと思う。

またまた個人的な話をすると、集中している時に、すごく脳みそを使っている感覚が心地良い時がある。「脳が汗をかく」と僕は表しているが、思索をする時、何かを創作する時にそれは起きる。実体験として、携帯と向き合わない時間が増えることで、脳はより深いことを考えたり、新しいものを生み出すことができているように思える。

なんでなんだろう、携帯はなぜ私の思考や創作意欲をそんなにとってしまうんだろう。どうせだったら、体重とかを奪ってくれればいいのに。

たぶん、YouTubeやtiktokを見るという行為は、ある意味極々と受動的な行為である。前述のものらは、ものすごい数の動画(=他者の創作物)を何も考えずとも簡単に閲覧できる。単純にエンタメ性の強いもの、そして理解しやすすぎるが故に、消費するものとしては、考えるという能動的な行為が疎かになってしまうのかもしれない。

しかし、受動的な行動としては映画、読書なども上げられないか。一見、受動的に消費するものとして考えると変わらないように見えるが、そこには媒体の速度という点において大きな違いがある。アルゴリズムによって次々と出てくるyoutubeや、スクロールをするだけで新しい動画が見られるtiktokとは異なり、映画を見る行為、特に本を読む行為には、ある程度時間がかかる。供給の量が選択によって限定されているということが正しいだろう。TiktokやYouTubeらはどんどん供給されてしまうがゆえに、消費者は思考の時間よりも新しいコンテツに夢中になり、それによって考える時間も失ってしまう。

消費の仕方にももちろん問題があるのだが、アナログを経験していない自分の世代にとっては、その供給量と、情報速度が当たり前で生活をしてきた節がある。この速度が当たり前として生きているということは、もしかすると、思考する時間があるということすらも 忘れかけている/知らない ということになるのかもしれない。恐ろしい。

文化物の消費するひとりの人間として、その距離と向き合えるようになっていきたいとぼやっと思った。読み返してみるとすごく当たり前のことを言っていると思う。

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