平和学習。何を学ぶか。どう学ぶか。
広島県で生まれ育った私は、小学生の頃、夏休みには毎年平和学習をする登校日がありました。
私の苦手だった夏の体育館。。。
暗幕が閉じられた窓。もわっとした重く、人の臭いが混ざり合った空間の中、はだしのゲンの放映。無残な描写に大音量で響く空襲警報や爆撃音。
呼吸が浅くなり吐き気がして頭が朦朧としてくる。
先生に泣きながらSOSを出すと、「何て失礼な子なの!辛い思いをされた被爆者のことを考えなさい!我慢してそこで観ていなさい!!」と怒られた。
涙と嗚咽を堪えて、ただただ映画が終わるのを耳を塞いで朦朧した意識で耐えるばかり。
この辛い体験は登校日だけのことではありませんでした。
秋、初冬頃まで。夜自分の部屋で1人で過ごしている時、飛行機が飛んでいる音。心臓がどくどくと動機がして来る。何の感情もなく目から涙が溢れそうになる。それを堪えると吐き気。今考えるとフラッシュバックを伴うPTSD症状。
しかもその体験は先生から「失礼なこと」と叱責されたことで、「感じてはいけない感覚を感じてしまっている」罪悪感で、誰にも言えず。小学生の頃の私はずっと悩んでいたのでした。
私に植え付けられた悲惨な戦争は、自分の辛い感覚の体験と相まって、苦痛で耐えがたいものに。「戦争は怖い」
私はずっとずっと考えていました。「戦争は怖い」これだけで良いのか?
中学生の頃イランイラク戦争の映像をニュースで見て。社会人になって同時多発テロを見て。ただただ「怖い」と感じる。それで世界は平和になるんだろうか。。。
平和について恐怖の植え付けにならず『自分事』として皆で考え、平和な社会を作る為にどうしたら良いのか、小さい頃から考え続けていた私
(小さい頃から毎年学んで来た平和学習の成果なのかも)
この本にはそのヒントが書かれていたのです!
苫野先生の著書の第一講、「あっ!私の欲しかった答えはこれだ!」と腑に落ちた瞬間でした。
人類は1万年もの間「支配する-支配される」関係、戦争を繰り返して来ました。それが200年前哲学者が考えた『自由の相互承認』の原理を元に、民主主義社会が始まりました。当時王や貴族がいて、不平等が「当たり前」だった世の中の「当たり前」を覆したのです。
戦争は「生きたいように生きたい」という人類が皆持っている「自由」への欲望を満たす為、お互いの「自由」を命を奪い合うことで起こります。
このお互いの「自由」をお互いがお互いに、相手が対等で「自由」な存在だと認め合うこと、そしてそのルールを元に社会を作っていくことが、皆が自由に平和に生きることに繋がっていく。。。
この夏東京でオリンピックがありました。コロナ禍での開催、いろいろ心配なことはありましたが、選手が「開催してくれてありがとう!」と涙ながらに語る様子に何度も涙がこぼれました。
スポーツマンシップは『自由の相互承認』。国境を越えそれを体現してくれた選手たち。
閉会式で橋本会長の「どうかこの景色を忘れないで下さい」のスピーチを聴いて、この平和な空間が国立競技場から、日本に、世界に、広がっていって欲しいと心から願いました。
苫野先生のこの著書には、価値観の違いを乗り越え『共通了解』を見出す『哲学対話』について書かれています。対話者はお互いの存在と意見を尊重し合う姿勢で建設的に対話していきます。
このあったかい対話が溢れる、安心と承認に支えられた空間が、家庭で、学校で、地域で、作ることが出来れば!地域が変われば社会が変わる!
誰もが安心して生活できる社会に。平和な世の中に。
本気でそんな夢みたいなことを考えている私。。。新しい『当たり前』を一緒に作っていきませんか?
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