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あたらしく・自由で・負に支配されない・飛翔する実在になって、このコンクリートな世界を生きる。

自分は小学校高学年から中学1年までの数年間、仏教を求道していた時期があった。

当時、毎日のように考えていたのは、「世界は幻影だ」「自分は幻影だ」「自分の意識は幻影だ」ということだった。

見る・聞く・味わう・嗅ぐ・感じる・すべてが幻影であるばかりか、それらを認識している主体である自分も幻影である、ということ。

そこから導き出される生き方は、「他人にいちいち反応しない」ということになる。

だって、ぜーんぶ幻影なわけだからねー。

でも、やっぱり、他人からひどいことを言われたり、やられたりすると、自分の感情は反応してしまう。

だから、どうするかというと、「自分の感情に支配されない」という生き方をすることになる。

今日の聖書の言葉。

だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。
テサロニケの信徒への手紙一 5:15 新共同訳

そんな自分が、なぜか、クリスチャンになってしまったわけだけど。。。

クリスチャンになってから、なにがイチバン衝撃だったかと言うと。。。

「世界はコンクリートだ」「自分はコンクリートだ」「自分の意識もコンクリートだ」ということだった。

この場合のコンクリートは、感覚によって感知可能な具体的な実在、ということだ。

えーっ、幻影じゃなく、実在だったのっ? 他人も自分も世界も感情も意識もっ? っていう、それこそ、コンクリートでアタマをかちわられるようなショック。。。

まあ、そりゃ、そうだろうなあ、と、思う。

だって、聖書の場合、永遠・不滅・遍在・全能・全知の創造主を想定していて、実在する創造主が創造する被造物は実在である、ってことになるわけだから。。。

なので、困ったのは、以前なら「他人にいちいち反応しない」ってことでスルーしていたものが、とたんに立ち止まっちゃうことになる。

だって、他人、実在するわけでしょう?

それだけでなく、「自分の感情に支配されない」ってことでスルーしていたものも、もはや、スルーできない。

自分の意識も、自分の感情も、まっとうな実在であるわけだから。

しかし、クリスチャンとして生きるなかで、だんだんわかってきたことがあった。

それは、実在する神は、実在する世界のなかで、実在する悪を、実在する善に転換させるために、実在するアクションを実行した、ってことだった。

そのアクションが、イエスの十字架と復活だったのだ。

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら
キリストと共に生きることにもなると信じます

これは、新約聖書のローマの信徒への手紙 6:8 の言葉なんだけど、自分にとっては数ある聖書のゴールデンバース(黄金の言葉)のひとつ。

これを、いつも自分にあてはめて、生きている。

すると、こういうことになるんだ。。。

自分に対して悪を行う他者は、幻影ではなく、実在だ。

他人に対して反応する自分の感情も、幻影ではなく、実在だ。

感情の扱いに苦慮している自分の意識も、幻影ではなく、実在だ。

でも、そういう自分は、創造主の手によって、イエスという実在のなかに含め入れられた。。。いったいどういうふうに含め入れられているのかはミステリーだけど。。。。そして、イエスの十字架の死によって、自分も死に、イエスの復活によって、自分も復活した。。。

聖書が言っていることを、全力で真に受けると、そういうことになるんだ。

そして、その論理的な帰結が、ローマの信徒への手紙 6:6 だ。

わたしたちの古い自分が
キリストと共に十字架につけられたのは
罪に支配された体が滅ぼされ
もはや罪の奴隷にならないためであると
知っています

というわけで。。。

コンクリートな世界で、コンクリートな他者に向き合っている、コンクリートな自分は、コンクリートな感情の扱いに苦慮しながら、しかし、すぐに死んで・復活する。

その、死んで・復活する、という動作は、ただイエスを信じるだけで、瞬間的に起きる。何度でも、何度でも、繰り返し、何度でも。

状況によっては、1日に1回、死んで・復活するときもあれば、数秒おきに、死んで・復活するときもあるけれど。。。

自分はイエスと共に死んだ・自分はイエスと共に復活した。そう信じた瞬間、あたらしく・自由で・負に支配されない・飛翔する実在になって、このコンクリートな世界を自分は生きている。

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