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変化する世界を前に、自分のこだわりを一個ずつ引き剥がして行く、っていう話です。

5分後の世界がどうなるかすら予見するのが難しい世界になってきているので、アタマをやわらかーくしていないと乗り切れないよなー、と感じる。

自分が子どもの頃は「豆腐のかどにアタマぶつけて死んじまえ!」っていう罵倒のフレーズを級友から言われたけど。昭和かよ(笑)

でもね。いまは豆腐ぐらいにアタマをやわらかくしてないと、ほんと、もう、いろんなことを受け止めきれなくなっている感覚がする。あくまで個人の感覚です。

今日の聖書の言葉。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
ヨハネによる福音書 14:6 新共同訳

アタマをやわらかくすることを阻害しているもの、っていうのは、やっぱり、自分のこだわりだろうね。

たとえば。。。

「道」つまり、自分の方法論へのこだわり、とかね。

自分の経験を通して確立したこの方法論は絶対だ、間違いない、これじゃなきゃダメなんだ、おまえのプランなんか聞いてないから、これ一択で行くしかないんだ、反対意見は認めない、みたいな態度。。。

ほんと、アカンと思う。

それと。。。

「真理」つまり、自分の正しさへのこだわり、とか。

自分は正しい、と思っている自分の思い込みが、ほんとうに正しいのかどうかなんてことは、実は何の保証もないわけであって。それどころか、その思い込みを根拠に、自分は他人に何かを強制できる正当な権利があるんだ、とか主張し始めた日には、もうね。。。以下、略。。。

あと。。。

「命」つまり、自分の生活へのこだわり、とか。

このメーカーのシャツじゃないとだめ、とか。コップをテーブルに置くときはこの定位置じゃないとだめ、とか。教会の礼拝はこのスタイルじゃないとだめ、とか。。。まあ、あるわ、あるわ、ライフスタイルへのいろんなこだわりが。。。ざっと数えても43億2千万ぐらいのこだわりがあるんじゃなかろうか。

そりゃあ、悟りを開くにも時間がかかるわけだよね。。。

でも、イエスは言っている。

わたしは道であり、真理であり、命である
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない

このイエスの言葉に、がーって目が開かれたなら。。。

つまり、イエスだけが道・真理・命であることが、ほんとのほんとに腹に落ちたなら。。。

そしたら、自分はもう、自分の道・自分の真理・自分の命へのこだわりから完全に解放されて、自由にされて、アタマ豆腐になれるはずなんだ。。。

でも。。。まあ。。。しかし。。。自分の執着・こだわりは、43億2千万ぐらいあるわけなのでね。。。だから、目まぐるしく変化する世界を前にして、ひとつ、ひとつ、そのこだわりを引き剥がして行くしかないよね。この言葉を唱えながら。

イエスよ、あなただけが道・真理・命です

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