霊?魂?体?いったい、どれやねん?問題。
自分の内面を見つめる時、いろんな言い方をすることがあるよね。
たとえば、内なる状態を「霊」と表現することがある。。。
「最近、ちょっと、霊的に落ち込んでてさー」みたいな。
あるいは「魂」と表現することもある。。。
「今日のメッセージ、とっても魂に沁みましたー」みたいな。
さらには「心」と表現したり。。。
「やっぱり、礼拝って心のよりどころだよねー」のように。
霊と魂と心。。。
いったい、どれやねん?(笑)
お葬式でよく聞くのは「眠りについた魂」とか「神のふところに抱かれた魂」というもの。
あんまり、霊が眠りについた、とか、霊が天国に行った、とは聞かない。
なぜなんだろうね?
今日の聖書の言葉。
わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。
エレミヤ書 31:25 新共同訳
人間は、どういう存在なのか、ってことを考えるのを「人間論」って言うんだけれど。。。
聖書の人間論は、霊と魂と体という三つの要素で人間はできている、って観ている。
根拠となる証拠聖句は、これだ。
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。
テサロニケの信徒への手紙一 5:23 新共同訳
ありがたいなー、と思うのは、神はわれわれの霊だけ救う、っていうのでは「ない」こと。
あるいは、神は魂だけを救う、というのでも「ない」こと。
さらには、体だけを救う、のでも「ない」のだ。
霊と魂と体。それら三つがぜーんぶそろって、しかも、それらの必要が完全に充足された状態になるように、神はわれわれを救ってくれるというのだ。
これを神学用語で「全人格的な救い」と言うんだけれど。
とっても疲れをおぼえる。。。
疲れをおぼえている自分というのは、霊なのか、魂なのか、はたまた、体なのか。。。
あるいは、ぜーんぶ疲れているのか。。。
自分でもよくわからないんだけど。。。
その疲れが癒されることを願い求めて、聖書のページを繰って読んでみたりする。。。
そして、そこに記されたテキストは、ただ単に精神的な慰安を与える、という次元以上のものなんだ。
だって、神は、霊も魂も体も、ぜーんぶセットで救ってくれる、って言うんだから。
だから、「全人格的な救い」が自分にあたえられるのを、大いに期待する。いまか、いまか、と待ち望んじゃう。
もちろん、それが、いま・すぐ・ここで・起きる、と言われているわけではない。
さっきの証拠聖句で言えば、時間の限定句が付いているんだ。
それが、これ。
わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき
非のうちどころのないものとしてくださいます
十字架につけられ、三日目に復活し、40日後にオリブ山から天に昇ったイエス。そのイエスは、歴史の終焉において、ふたたび戻って来る、と聖書は予告している。
で、イエスがふたたび戻るタイミングで、われわれは完全に救われる、と聖書は約束しているんだ。
イエスが戻って来る。
その瞬間われわれは、霊も救われ、魂も救われ、体も救われ、不足や不満や欠目や傷が、なにひとつない状態になっちゃう、っていう。。。
ほんとにそんなことが起きるのか、ってことを疑いたくなる気持ちになることもある。。。
それこそ、霊が落ち込んでたり、魂が疲れてたりすると、そうなっちゃう。。。
でも、イエス・キリストは、よみがえられた! ほんとうに、よみがえられた! という単純な事実のうちに、すべての希望が詰まっているんじゃないかなー、とも思う。
キリストがよみがえったように、自分も、よみがえる。。。
キリストがパーフェクトな存在であるように、自分も、パーフェクトにしてもらえる。。。
それは、落ち度のない完全無欠な人格になる、という意味ではなく、むしろ、霊も魂も体も、すべて充足し、すべて安息し、すべて満たされた状態になる、っていう意味でのパーフェクトなんじゃないだろうか。
それを期待して行こう!
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