死者が生者によって忘却される悲しみ、という話です。
自分がクリスチャンになったきっかけは、中学のときに祖父と犬が相次いで亡くなったことによる。
あのときはじめて「死」を自分の問題として意識した。
あれから40年が経過しているわけだけど、いま、日々の生活のなかで祖父や犬のことを思い出すことがあるかというと、ほとんどない。
それはとっても申し訳ないことだと思う。
でも、生者の生活が続行するなかで、死者の記憶はどんどん薄れて行く。
そして、ついに消えそうになるのだ。
いや、今日これを書いていることで、祖父と犬を想起することができて、よかったけれど。。。
大切なひとを失う悲しみは、二重にあるのではないかと思う。
ひとつ目は、そのひとと一緒に日常を生きることが出来なくなる、という悲しみ。
ふたつ目は、そのひとについての記憶が薄れて行って、やがて悲しみを感じなくなってしまう、という悲しみだ。
今日の聖書の言葉。
ユダヤ人は葬式のために泣き女たちを雇って1週間以上も悲しみ続けるという習俗を持っていたそうだ。
どうしてそんなに悲しむことを演出しなければならなかったのか。
想像するにそれは、死者を悼むという直近の悲しみだけでなく、これから時間が経過すれば死者は生者から忘却されるという残念な未来を見越した上で、死者が要求してしかるべきまっとうな量の悲しみを全部一括して注ぎ出しておく、という意味があったのかもしれない。
その泣き女たちの悲しみの声が響き渡るベタニアの村にイエスは足を踏み入れた。彼の愛する友ラザロを弔うために4日も遅れてやって来たのだ *。
イエスは墓の戸を開けさせて、その前に立った。
深く穿たれた墓穴は真っ黒な断面を見せている。
その黒々とした穴は、死者たちが生者によって忘却される悲しみ、そして、ひとたび忘却されたらもう誰からも思い出されないという悲しみを象徴しているかのようだ。
その真っ黒な断面に向かってイエスは「ラザロよ、出て来なさい!」と呼びかけた。
その瞬間、死者の世界からラザロは生者の世界に戻って来た。
匿名や無名の誰かではなく、誰にも代替不可能な固有の人格を持つラザロとして戻って来たのだ。
どうしてイエスにそんなことができたんだろう?
新約聖書の主張によれば、 永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」は、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に赤ん坊となって降り立った。それがイエスだ。
つまり、イエスは人間となった神であり、神である人間だということになる。
神であるから神としてすべての個人の名前を知っているわけで。。。だって全知だからね。。。
その神が名前を呼べば、死者は忘却の彼方から連れ戻され、生者となって神の前に立つ。
こんなことができるのは神だけだ。
考えてみれば、神から呼び出されるというのは、校長室に呼び出されるようにオソロシイ。
あのこと、このことがばれて、怒られるのだろうと予感するしかない。
ましてや、呼び出して来た相手が「神」であれば、ぜーんぶまるっとオミトオシであるわけだから、言い逃れるすべがない。。。
しかし、イエスが神であるなら、事情は違って来る。それは新約聖書がこう言うとおりだ。
イエスは神であるので、イエスが名前を呼べば、その瞬間われわれは死者から生者に変わって日の光の下に立つ。
イエスはまた人間でもあるので、われわれに対する同情心に富んでいる。
イエスは、われわれの弱さ・欠点・失敗・あやまち・罪を受け止め、理解し、ゆるしてくれる。オレもオマエも同じ人間だから、という理由で。
そしてイエスは言うのだ。生きろ!って。
イエスがいるなら、自分は死を恐れる必要はないし、むやみに死を悲しむ必要もないことになる **。
だって、すべての死者が生者によって忘却される日が来たとしても、イエスは忘れないでいるから。
自分が死んで、すべての人から忘却されたとしても、イエスは忘れないでいるから。
そのイエスが名前を呼んでくれるなら、死者の世界から自分もみんなも生者の世界に戻ることができるから。
そのイエスは、ラザロの時もそうだったように、いつも、いまも、葬儀の場に遅れてやって来る。
註)
* Cf. ヨハネ 11:1ff
** Cf. テサロニケ一 4:13ff
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