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「信じること」だけを抱いて、眠りに落ち、「信じること」だけを抱いて、目が覚める。。。

眠りにつくことは、死の予行演習だ、と自分は思っているんだけど。。。

だって、明日の朝、いつもどおり目が覚めるとは限らないわけで。。。

でも、まあ、もし、いつもどおりじゃない朝を迎えたとして。。。

その場合であっても、「永遠の朝」に目覚めることになるわけだから、目覚める、っちゃあ、やっぱ目覚めるわけか。。。

今日の聖書の言葉。

だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
マルコによる福音書 11:24 新共同訳

自分が眠りにつく前に習慣的にしていることが、ある。

それは、一日をかえりみて、悔い改めの祈りをすることだ。

どういうふうにやるかというと。。。

べつに、その日の自分の言動を洗いざらい点検する、というようなことではなく、シンプルに「良心」に痛みがあるかどうかを、感じてみる。

すると。。。

すこーし、こころに違和感を感じるような日がある。そういうときは、ビミョーなことを、やっている。罪と罪でないことの境界線のあいだのグレーゾーンみたいなやつだ。

逆に、こころがズキーンと痛む日もある。それは、あきらかに、やらかしてしまっている、ってことだ。

奇跡的に、こころに違和感も痛みも、なんにも感じない日もある。そういうときは、おだやかに眠れるよね。明日が「永遠の朝」になったとしても、なーんにも問題ない。

「良心」に違和感や痛みを感じるときには、眠りに落ちる前に、悔い改めの祈りをする。

悔い改め、といっても、おおぎょうなことをするわけではない。次のような短い祈りを、こころのなかで三回、唱えるのだ。

主イエス・キリスト、神の子、救い主
罪びとのわたしを、あわれんでください

この祈りを終えて、「ああ、ゆるされた、これで安心」と実感できることは、あんまり、ない。

それはつまり、祈ったけれど、祈りがきかれたのか、きかれてないのか、確証がない、ということだ。

クリスチャンになりたての頃は、この、祈りがきかれた確証がない、という不在の感覚が、不安で仕方がなかった。

でも、ある日、その不安は終わらされたんだよね。この聖書の言葉によって。。。

祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい
そうすれば、そのとおりになる

ここで言われているのは、ただ祈るだけではなく、祈ったことはすでに得られたと「信じる」ことが大切だよ! ということ。

そして、信じる、ということ自体が、それがのまま「確証」になるんだ。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し
 見えない事実を確認することです

眠りにつく前、良心の痛みを感じながら、悔い改めの祈りをする。祈り終える。。。

祈り終えると、なーんにも感じない。無味乾燥だ。しかし、信じる。それでも、信じる。

イエスの十字架と復活によって、自分の罪は、あがなわれ、つぐなわれ、完全なゆるしが与えられた、と信じる。

この目でイエスを見たことはないけれど、信じる *²。

そして、そのようにして「信じる」こと自体が、祈りがきかれた証拠であり、確証であり、保証である、として受け取る。

なので、眠りに落ちて行きながら。。。薄れゆく意識のなかで。。。こころのなかに抱いているのは、良心の痛みではなく、恐れや不安ではなく、無限の悔い改めの祈りでもなく、ただ「信じる」こと、だけだ。

その「信じる」ことだけを抱いて、明日の朝、いつものように目が覚めるかもしれないし、あるいは、永遠の朝に、目が覚めるかもしれない。

でも、どちらにしても、本質的な違いは、ないんだ。

だって、「信じる」ことだけを抱いて、目が覚めるわけだからねー。

註)
*1.  Cf. ヘブライ 11:1
*2.  Cf. ペトロ一 1:8

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