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自分が祈ったからといって、この世界がどうにかなるものだろうか。。。っていう話です。
曖昧模糊としたこの世界が5分後にどういう世界に収束するのか。。。
気になって仕方がないけれど、それを知るすべもない今日この頃。。。
みなさま、いかがおすごしでしょう?
自分は根っからの文系人間で、数学とかカラキシだめなんだけど。。。
でも、SF好きであるものだから、ときどき量子論について書かれたものを読んでは、ため息をついている。
だってさ、すごいミステリアスなんだもん。。。
ほんと、不思議でしょうがないのは、光だよねー。
光は、つきつめると、粒子でもあり、波動でもある。
いったい、どっちやねん!? って思うんだけど、どちらでもあるのだ。
どういうことかと言うと。。。
光は、粒子である状態と、波動である状態が、重なり合った状態で存在している。。。
いや。存在している、って言うよりかは、人間が見てないところでは、それがどうなっているのか、わからない、って言ったほうがいいだろうか。。。
で、その光を人間が「粒子だ!」と思って観測すると、その瞬間、光は粒子の状態に収束して、粒子となる。
逆に、その光を人間が「波動だ!」と思って観測すると、その瞬間、光は波動の状態に収束して、波動となる。
これを観測者効果って言うんだけれど。。。
曖昧模糊とした存在に対して人間が名前を付けて認識した瞬間、存在は、名付けられたとおりの「それ」になるっていう。。。
まあ、これは、宇宙のデフォルトの設定でそうなってるわけだから、考えれば別に不思議でもなんでもない。
ただそういうことですよね、っていうだけの話ではあるんだけど。。。
だから、むしろ、それを不思議と感じる人間の感覚の方が、不思議なのかもしれないねー。
オレが、それに名前を付けて認識すると、それが「それ」になるってことを、なんでオレは不思議に思っちゃうんだろう。。。
今日の聖書の言葉。
主よ、あなたはわたしの神
わたしはあなたをあがめ 御名に感謝をささげます。
あなたは驚くべき計画を成就された
遠い昔からの揺るぎない真実をもって。
イザヤ書 25:1 新共同訳
曖昧模糊とした存在に対して「神」が名前を付けて呼ぶと、存在は名付けられた通りの世界として出来する、っていう創世記第1章の記録を読むと、まあ、そういうことはあるだろうなー、と思う。
だって「神」は、ほんとのほんとに最初の観測者であったわけだから。
「神」が観測者なら、確かに世界は神が名付けたとおりの世界になるだろうね。なにせ、神だもん。。。
初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。
創世記 1:1-3 新共同訳
こういう世界創造の方法を、名辞による存在の分節化、というふうに呼ぶわけなんだけど。。。
聖書を読んでいて、おもしろいなー、と思うのは、「神」はひととおり世界の創造を終えてしまうと、今度は、名辞による存在の分節化を、人間にもやらせてみた、ってとこなんだよね。
その証拠聖句が、これ。
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
創世記 2:19 新共同訳
神は、曖昧模糊としたなにものかを、人間のところに連れて来た。
で、人間が、それに名前を付けて呼ぶと、それは「それ」になった、って言うんだ。
これは、「神」がやった、あの宇宙規模の存在の分節化を、スモールかつローカルなバージョンで人間にやらせてみた、って話なんじゃないかなー、と自分は思っている(諸説あります)
そうすると、この世界というのは、もしかしたら二段構えになっているのかもしれないねー。
世界のグランドデザインは、最初で最大の観測者である「神」が名前を付けて、そのとおり、そのような世界になっている。
しかし同時に、世界のディテールについては、小さな観測者である人間が名前を付けて、それもまた、そのような世界になっている。
そういう意味での二段構えの世界だ。
さて、世界は自分が見て感じた通りの世界になるのだとしたら。。。
もしそうだとしたら、そこで問題になるのは、人間・つまり・自分の認識というものが、いつもなんだかグラグラゆれている、ってことになるのかもしれない。。。
女心と秋の空、じゃなかった、男心と秋の空、でもなかった、猫の目みたいにくるくる切り替わる自分の気持ち。。。
その変化によって、いとおしかったものが急に憎らしくなったり、憎らしかったものが急にいとおしくなったり。。。
そのたんびに、世界のカラーはパープルになったりグレーになったりピンクになったりイエローになったりする。
そういう世界にふりまわされて、自分の気持ちは、さらにもっと、ぐるぐる変わり続けるわけで。。。これはキリがないよね。。。
しかし、それは、あくまで、この自分が見ている範囲内のディテールだけに限ったことなのかもしれない。。。
もし、この世界のグランドデザインに関しては、すでに永遠盤石のコトが「神」によって確立されているのだとしたら?
その永遠盤石のコトというのは、新約聖書が言う通り、これなのではないか、と自分は思う。
すなわち。。。
永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」は、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に赤ん坊となって降り立った。それがイエスだ。イエスは全人類の贖罪のために十字架にかかり、三日目に復活し、いま、聖霊をとおして全人類のうちに働いている。
さて。。。
あいもかわらず、くるくる猫の目のように変わり続ける自分のココロだけれども。。。
でも、そのココロのうちに、イエスが共にいてくれるとしたら?
キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、 あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。
コロサイの信徒への手紙 2:9-10 新共同訳
だとしたら???
そうだとしたら、自分もイエスの目・つまり・神の目で世界を見ることができるようになるかもしれない。
イエスは、曖昧模糊としたこの世界を、見る。その瞬間、世界は、イエスが願うような世界に収束する。
そのイエスが、自分のココロのなかに、いてくれる。
自分も、曖昧模糊としたこの世界を、見る。でも、猫の目のように変わる目ではなく、イエスにチューニングした目で見る。その瞬間、世界は、イエスと自分が願うような世界に収束するんだ。
そんなことが可能だろうか? 可能だと信じたいよ。。。
はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
マルコによる福音書 11:23 新共同訳
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