他者の他者性は解消したり解体したりできるのか? いや、そもそも、そういうことをしていいのか? っていう話です。
おだやかな人生を送りたいと誰しもが願いながら、なかなかそれを実現することができなくて、みんな大変な思いをしているわけなんだけど。。。
おだやかでいられないのは、いろいろ腹が立つことがあるからだよね。
で、腹が立つというのは、ほとんどすべて「他者」に関することじゃないかと思う。
じゃあ、他者とは何か? ってことになるんだけど。。。
他者が他者たるゆえんは、自分にとって了解不可能な他者だから、だよね。
はっ? なに、それ? 理解できない!? ってなるのが他者であって。。。
あー、そうそう。わかります。そうですよねー。自分も同じです! っていう感想しかなかったら、腹は立たないわけだし。
でも、残念ながら世界を構成している圧倒的多数は自分にとって了解不可能な他者ばかりだ。
人間は不思議なもので、そういう了解不可能な他者を他者としてあるがままに放っておくことが、どうしてもできないみたい。
なんとか他者の他者性を解消しようと動いてしまうのだ。
徹底的に糾弾して自己批判させる、というのは、他者の他者性を解消しようとする試みのひとつだ。
もっと行くと、暴力を行使してでも他者を自分の意に沿わせようとする。
その暴力は、言葉の暴力から始まって革命や粛清を経て戦争を通って核戦争に至るまでいろんなグラデーションで存在しているよね。
まあ、核戦争まで行ったら、もはや他者の他者性の解消どころではない。他者の他者性の解体だ。
それはイコール、セカイノオワリだ。
今日の聖書の言葉。
他者の他者性を解消するなんて不可能なはずなのに、今日もわれわれはそれをやろうとする。そして腹を立てる。
これだと、おだやかに生きるなんて、できるわけがない。
だから、われわれには「知恵」が必要なんだろうなー、と思う。
興味深いことに聖書は、知恵の一歩目は「神」を畏れることだ、と言っている。
神って言ったらそれこそ他者の中の他者、あらゆる他者の中で最も理解しがたい他者、他者の王様、つまり「絶対他者」であるわけだけど。。。
その「神」を畏れる、ということは、神が神であることを認める、ってことになるのだろうと思う。
それは裏返したら、自分は神ではありません、人間にすぎません、ということを自覚することなんじゃないだろうか。
旧約聖書のヨブ記では、他者の他者性を解消しようとする終わりのない議論の果てに、まさかの「神」の登場によってピリオドを打たれることになり。。。
絶対他者である神本人を前にヨブはこう言うしかなかった。
自分的には、このヨブの姿勢が「神」を畏れる、ってことなのだと思う。
じゃあ、畏れの体験から離れて日常生活に戻った場合に、どういうふうにふるまえばいいのか、ってことになるんだけど。。。
それは、きっと、他者の他者性をあるがままに尊重して生きる、ってことになるんじゃないだろうか。
だって、絶対他者としての「神」がすべての他者を創造したわけだから、その神を尊重するなら、すべての他者を尊重するしかないわけであって。。。
なので、祈ろう。。。
どうか世界の指導者たちが、自分とは異質な他者を尊重することができますように。他者の他者性を暴力で解消しようとする試みを断念することができますように。神を神として畏れることによって、その神が創造した他者を隣人として受け入れ、尊重することができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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