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餅の本質とは何か? じゃあ、自分の本質は? っていう話です。

新しい年がスタートしてはや1か月が経とうとしている。最近のタスクのひとつは、まだなくならないお正月の餅のストックを消化すること。連日、きな粉餅、安倍川餅、お汁粉にして食べている。餅はトーストに比べると腹持ちが良いから助かるよね。

うちの場合、お餅は真空パックに入れてベランダの吹き曝しに置いている。だけど、パックの密閉度に完全と不完全とがあったみたいで、1か月が経過すると、カビだらけなのと、まったくカビてないのと、てきめんに違いが出て来る。優先順位としては、まずカビてる餅を消化しないといけない。だって、放置してたらどんどんカビてしまうから。

なので、固いお餅の表面にこびりついた赤や青や黄色のカビをナイフで削り落とす下処理をしてから焼いて食べる。これが結構な手間だ。食べてみると、カビっぽいにおいがほのかにしないわけでもない。でもまあ、気にするほどでもない。

今日の聖書の言葉。

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
コロサイの信徒への手紙 3:1 新共同訳

餅を餅たらしめている餅の本質と言ったらそれはモチ米で出来た本体ということになるんだろうけど、もし、このままどんどんカビが増殖していったら、ある時点を境に本体のほとんどがカビに置き換わってしまうんじゃないのかなー、と思う。そうしたら、それ以降は、もう餅ではなくカビのカタマリということになるのかもしれないね。

じゃあ、自分を自分たらしめている自分の本質と言ったら、それは、なんなのだろう? それについては、たぶん、これと、これと、これと、これ。あと、これも、みたいに書こうと思えば書くことができるわけだけど、でも、省略する。そうして、たくさんあるそれらの中には、失われつつあるものがあるんだよね。本日現在まだあるけど、明日はわからない、みたいなのが。。。

まあ、これは加齢による衰えで、若かった時にあたりまえに出来たことが、出来なくなって来た現在、という理由ではある。そういう、失われつつあるもの・失われる可能性があるもの・すでに失われたもの、をカウントして行くと、自分がどんどんしぼんで小さく薄くなって行く感覚がする。。。

だからだろうねー。過ぎ去り消えゆくものではなく、永遠不動の確かな「何か」に自分のアイデンティティを置きたいなー、って思うのは。自分はクリスチャンなので、やっぱり、自分の本質・本体をイエスに置きたい、と願っている。

あなたがたは
キリストと共に復活させられたのですから
上にあるものを求めなさい
そこでは
キリストが神の右の座に着いておられます

餅の本質は餅だ。で、自分の本質はイエスにある、って言うことになる。こんな大それたことを思ったり願ったりしていいんだろうか、って、ちょっと不安になることもないわけではないけれど、でも、新約聖書がそう言っているんだから、単純にそう思うことにする。だって、こうあるんだもん。

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
ガラテヤの信徒への手紙 2:20 新共同訳

もちろん、今日を生きているのは、どう考えたって自分でしかないわけで。。。だから、朝、目を覚ましたら、着替えて、顔を洗って、歯を磨いて、コーヒーを入れて、安倍川餅を食べて、それから仕事に取りかかる。。。それをどこまてやっても、やっているのは自分だ、という意識しかないよね。。。

でも、聖書が言っていることを真に受けるならば、やっているのは、自分のうちにいる復活のイエスだ、復活のパワーでイエスがそれをやっているのだ、と言うことになる。ホントかよ。ホントだよ。

キリストがわたしの内に
生きておられるのです

そうすると、今日を生きる自分のパワーのソースは、どこにあるのか? それはイエスのうちにあり、イエスから来ていて、イエスがエネルギーの供給源だ、ってことになる。

じゃあ、そのイエスはどこからエネルギーを得ているのか? それについては、今朝、ハリストス正教会の『主日奉事式』の祈祷文を読んでいて、はっ、とさせられることが書いてあった。こういうお祈りの言葉だ *。

父のふところを離れずして
地に降りしハリストス神や

このお祈りの表現は、プロテスタントである自分には、はっ、と言うか、衝撃と言うか、目からウロコと言うか、ショックだったよ。というのは、ヨハネによる福音書 1:14 で言われているとおり、独り子なる神であるイエスが、父なる神のふところにいる、というイメージはわかってたつもりだった。でも、イエスは「父なる神のふところ」を離脱することによって地上に降下し、ベツレヘムの馬小屋の飼葉桶のワラの上に赤ん坊として生まれた、というふうに自分は理解していたんだ。

ところが、正教会では、そうじゃない。永遠の昔も・現在も・永遠の未来も、イエスはいつも・たえず・つねに・ずーっと「父なる神のふところ」の中に居て、居続けて、そこを一瞬たりとも離れることが無かった、って考えられているらしいんだ。スゴイね!

イエス。。。父なる神のふところから出たこと一度も無かったのかよ。。。なので、飼葉桶のワラの上でも、ナザレの大工の作業部屋でも、山上の垂訓の丘でも、サマリヤの井戸の傍らでも、ベタニアのラザロの墓の前でも、エルサレムの二階座敷でも、ゲッセマネの園でも、ピラトの官邸でも、ゴルゴダの十字架でも、墓の中でも、二度目の召命を弟子たちに与えたガリラヤ湖畔でも、オリブ山から昇天するときも、いまも、これからも、永遠に、ずーっとイエスは「父なる神のふところ」の中に居た・居ることになる。

この前提が正しいのであれば、それは、ダイレクトに自分に跳ね返って来るよね。だって自分は、自分の本質はイエスにある、ということを信じていて、じゃあイエスの本質は何かと言ったら、いつも・たえず・つねに・ずーっと「父なる神のふところ」の中にいる独り子なる神、それがイエスの本質だ、ってことになるわけだから。

それはつまり、今日・いま・この瞬間の自分の立ち位置もまた「父なる神のふところ」の中にある、ということになる。

あなたがたは
キリストと共に復活させられたのですから
上にあるものを求めなさい
そこでは
キリストが神の右の座に着いておられます

そうなのだ。だから今日のお昼も、あのカビている餅のカビをナイフで全部こそぎ落してお汁粉にして食べよう。「父なる神のふところ」の中でイエスと共にそれをさせていただこう。

註)
*  Cf. 『主日奉事式』ハリストス正教会、p.152

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