見出し画像

お盆の最終日なので、冥界で私たちを待ち受けるものについて考えた。

ことしのお盆も、今日が最終日。

冥界の扉を閉じる送り盆

疫病のため、みーんな帰省できない、かつ、異常気象で秋みたいに涼しい、っていう、なんか、お盆だかお盆でないのか、わからないようなお盆だったけど。。。

お盆は、この世とあの世を隔てる冥界の扉が開いて、死者たちが大挙して訪れるシーズンだと言われているよね。

生者の世界に帰省して来たご先祖さまたちも、ことしはさぞかし拍子抜けしたんじゃないかと思う。

自分はクリスチャンなので、家に仏壇はないし、盆提灯はかかげないし、オバケをコワがることもしない。。。コワいけど。。。

でも、自分の DNA に何か刻印されているのかもしれないねー。やっぱり、お盆になると、あの世のことを、あれこれ、考えちゃう。

自分が死んで、墓の向こう側に行ったら、どんな服を着るんだろう? 飲み食いはできるんだろうか? いま自分がかかえている、いろんな欲望は、あちら側では、どうなってしまうんだろう? 

今日の聖書の言葉。

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
ガラテヤの信徒への手紙 5:24 新共同訳

自分がかかえている欲望には、いろんな種類があるんだけれど、ここでは、つまびらかにしないでおこう。。。

で、それらの欲望の本日現在における状況は、どうなっているかというと。。。

ちゃーんと消え去ることなく、自分の足元や肩の上でにぎやかに走り回っている。

まったく、うるさいこと、この上ない(笑)

今日の聖書の言葉は、それらの欲望は、古い自分と共にイエス・キリストの十字架につけられて死んだのだ、と言明している。

古い自分、というのは、なんとなくイメージできるんだよね。

それは、「神」を抜きにして生きようとして、平気で生きてしまえる、あたりまえの、ごくふつうの自分の状態だ。

神は、そういう自分を、もろもろの欲望とワンセットにして、イエス・キリストの十字架につけてしまった、と聖書は言うんだ。

キリストが死んだのは、ユリウス暦で紀元33年4月3日(金)の午後3時頃と推定される。それって、いまから1988年まえのことだ。

いま現在、自分はぴんぴんして生きている。

その自分を、神はイエス・キリストのパースンのうちに含め入れて、十字架につけてしまった、ってことになる。

つまり、1988年まえのキリストの死という一回限りの出来事によって、この自分も死んでしまった、ということ。

いったい、どうしたら、そんなことが可能になるのか、ほんと、これはミステリーとしか言いようがないんだけれど。。。

まあ、でも、神がそう決めた、と言うのであれば、そのようになるしかないよね。だって、神だもん。

問題は、十字架は十字架でオワラナイということだ。

だって、十字架は、かならず復活に通じるわけだから。

聖書は、キリストに結ばれた自分は、キリストと共に復活する、と言っている。証拠聖句が、これ。

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
コロサイの信徒への手紙 3:1 新共同訳

これって、キリストと共に復活「する」って言うよりか、もう、「した」って、言い切ってるよね。

オレ、もう復活してるんやん!

ここで考えちゃうのは。。。

古い自分が死んで、あたらしい自分に復活する。。。それは、わかる。

じゃあ、自分とワンセットになってた欲望は、どうなるの? それも、あたらしいかたちで復活するの? っていうこと。

これについては、わからない、としか言いようがないんだけれど、しかし、作家の C.S.ルイスは『天国と地獄の離婚』という神学的ファンタジー小説のなかで、おもしろい仮説を紹介しているんだ *。

どういうのかというと。。。

生きているあいだ、欲望にまとわりつかれて、ずーっと苦しんでいた男が、ついに死んで、天国の入り口にたどりついた。

その欲望は、小さなトカゲの姿をしていて、男の肩にちょこんと乗っている。トカゲは、なおも男を苦しめようとする。

男は、出迎えに来た天使に、この欲望をなんとかしてくれ、と懇願する。

すると、天使はトカゲをつかまえて、背中をへし折り、殺してしまうんだ。

投げ捨てられたトカゲは、しかし、息を吹き返して、だんだん大きくなり、美しく精悍な白馬に変身してしまう。

それと共に、男もまた、栄光に輝く人間に変身する。

男は白馬にまたがると、いちもくさんに天国の中心に向かって走り去っていった。。。

。。。っていうファンタジーだ。

この C.S.ルイスのビジョンが、ほんとうかどうかは、まあ、実際に天国に行かないと確認できないことではある。

しかし、いまの自分を、みじめさから救ってくれるビジョンではあるよね。

新約聖書が「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」(ローマ 8:21)って言うとき、自分が思い浮かべるのは、ヤモリ・スズメ・金魚・猫・植物たちが、栄光の姿に変えられて、天国で自分を迎えてくれる、っていう光景なんだけど。。。

それだけじゃなく、いま自分がもてあましている欲望も、自分と共に死ぬことによって、栄光の姿に変えられて、天国で自分を迎えてくれるのだとしたら、どうだろう? 

それが、美しい白馬になるのか、巨大な白鯨になるのか、はたまた、ユニコーンになるのかは、見てみないとわからない。

でも、期待してみよう。そしたら、なんだか、ワクワクするじゃんか!

冥界の扉またいで友の待つ

註)
*  C.S.ルイス『天国と地獄の離婚』(The Great Divorce) 1945年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?