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胸の真ん中に鉛のような塊を感じるときは、首の骨をポキポキならしてみる、っていう話です。

悲惨な出来事が連続して起きる世界において、なぜ神は事態を放置して沈黙するのか、という重いテーマを、カトリック作家の遠藤周作は『沈黙』(1966) で取り扱った。

自分はどちらかというと狐狸庵先生シリーズのユーモリストとしての遠藤が好きなんだけれどね。

遠藤の書いた文章でなぜか自分がしょっちゅう思い出すラインがあって、それは、遠藤が作家仲間とバーで飲みながら談義している時、ふと奥さんのことを思い出すと、胸の真ん中に鉛の塊があるみたいに感じる、って言うやつ。

いや、遠藤自身の言葉なのか、遠藤が作家仲間から聞いた言葉なのか、どの本に書いてあったのか、なにも思い出せないので、正確なラインではないんだけれど。。。

でも、「胸の真ん中の鉛の塊」っていう表現だけは、一日に三回ぐらい思い出す。どういう瞬間に浮かんでくるかというと、悲惨な出来事が連続して起きる世界において、なぜ神は事態を放置して沈黙するのか、っていうことを、ふとした拍子に考えるたびに、この言葉が浮かんでくる。

っていうか、ほんとうに胸の真ん中に鉛の塊があるみたいに感じるんだ。

今日の聖書の言葉。

それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。
イザヤ書 7:14 新共同訳

神は今日もテレビに登場しない。神は新聞の投稿欄に投書しない。神はYouTubeで自分の番組を流さない。神はTwitterでつぶやかない。神は今日もこの世界のさまざまな動きのなかで沈黙を貫いている。

しかし考えようによっては神は決して黙ってなどいないと言うこともできるかもしれない。

自分の同僚は分厚い聖書を指し示しながら、「ほら、見てよ、神は黙ってなんかいない。神が言いたいことは全部このボリュームに書いてある。神は、われわれがちょっと読もうとしても読み切れないぐらい、言いたいことをたくさん、ここに収めてくれたのよ」って言ったっけ。

それは彼女が映画『沈黙』(2016) を見て来た直後の感想だったから、まあ、ちょっとショックだったのかもしれないなー、とも思うけど。

でも、彼女の言う通りかもしれない。聖書はスゴイ分厚い。そこには神がわれわれに言いたくてウズウズしていることが、確かに書かれている。

いや、むしろ、逆か。神は神だから神として言いたいことは、ほんとうにたくさんあるだろうはずなのに、その全部を聖書という一冊にコンパクトに収め切っているとしたら、それは奇跡だ。「神」にしかできない離れ業だ。

神が神として言いたいことの全部を、印刷して鞄に入れて、どこでも持ち運んで行って、好きな時に好きな場所で好きな分量を好きなだけ読めるという「聖書」は、考えてみたら、そりゃあ便利なものだ。

しかし「胸の真ん中の鉛の塊」が冷たく重く感じられる日には、聖書のページを繰ろうとしても、おっくうで手が動かない。読んでも文字が頭に入って来ない。そういう日は重たく感じる身体を引きずって、ゆっくり生きるしかないよね。

でも、そんなときにこそ今日の聖書の言葉を自分は新しい喜びをもって受け止めようとしてみる。これだ。これ。

見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ

永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」は、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に、小さな赤ん坊となって降り立った。それがイエスだ。。。

ってことを自分はクリスチャンとして信じているわけだけれど、そのことが自分に対して持つ意味は、こういうことだ。。。

「神」はイエスにおいて人間の身体性を引き受けてくれた。それが、神が赤ん坊になったということの第一義的な意味だ。

それはつまり、抽象的な真理とか、高尚な教義学とか、難解な神学とか、聖書の歴史的文法的意味とかいうことのずーっと以前に、この「身体」において神は自分と結びあってひとつになってくれている、ってことなんだ。

身体。それは、コトバ以前の原初的で根源的な場所だよね。だってさ、身体だからね。コトバがなくったって身体はここにあるわけだから。

身長172センチ、体重70キロ、年齢56歳、歯が2本抜け、飛蚊症で7匹の「蚊」が視野を飛び回り、冬になるたびにギックリ腰に襲われ、年齢と共に集中力も忍耐力も目減りし続けているこの「身体」において、神は自分と結びあっていてくれる。

なぜなら「神」は母マリアの本質から血と肉を取って、ほんとうにほんとうの人間になってくれたから。それがイエスであるわけだから。

あいもかわらず神は沈黙しているように見えるし、聖書を読むことで神の声を聞き取ろうとしても自分はすぐ眠くなってしまう。

しかし、この重く引きずって預けどころがないみたいに感じる「身体」において、いまこの瞬間「神」は自分と共にいてくれる。

そのことを美しい詩文のように表現したカルケドン信条のフレーズが自分は好きだ。特に下記の太字の部分がね。

カルケドン信条
われわれはみな、教父たちに従って、心を一つにして、次のように考え、宣言する。
われわれの主イエス・キリストは唯一・同一の子である。同じかたが神性において完全であり、この同じかたが人間性においても完全である。
同じかたが真の神であり、同時に理性的霊魂と肉体とからなる真の人間である。
同じかたが神性において父と同一本質のものであるとともに、人間性においてわれわれと同一本質のものである。「罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである」
神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、神の母、処女マリアから生まれた。
彼は、唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、
二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるかたである。
子の結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ各々の本性の特質は保持され、
唯一の位格、唯一の自立存在に共存している。
彼は二つの位格に分けられたり、分割されたりはせず、
唯一・同一のひとり子、神、ことば、イエス・キリストである。

立ち上がって、背伸びをして、首の骨をポキポキならしてみる。そうだ。身体性において人間と結びあっていてくれる「神」は、けっして沈黙なんかしていないのだ。

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