わきまえる、けじめをつける、無理ゲーだ。。。なので、祈る、立ち上がる、新しい構造を生きる、という話です。
わきまえなさい!と、よーく言われる。
てか、言われることが多かった。。。でも、最近は、どうかな。。。
もう、この年になると、周りもあきらめて、言ってくれないのかも。
しかし。。。
そもそも「わきまえる」って、どういう意味なんだろうね?
もうね、人生そこから、やりなおさないとダメかもしれん。。。
今日の聖書の言葉。
というわけで、国語的な意味から。。。
【わきまえる】物事に存する(潜んである)けじめを、これがそうだと見分ける。弁別する。特に、道理などを十分に心得る(by Oxford Lanuages)
ふーん。。。
ちゃーんと物事を見て、そこに潜んでいる「けじめ」を、見分ければいいんだね?
えーと。。。えーと。。。じゃあ、「けじめ」って、どんなヨウカイ?
(ダメだ、こりゃ)
【けじめ】物事の差。二つ以上のものの間にある、質的または量的な差。優劣、大小、多少などの差。比較される一方の立場に立って他との違いをいう場合が多い(by 精選版日本国語大辞典)
うむぅ。。。自分的には、あいまいで、漠然としていて、混然一体で、流されているような状態が好きなんだけど。。。
それではイケナイということですね。。。
では、あらためて。
自分が他者に対して、どういう姿勢で接するべきか、ということについて。
「けじめ」をつけよう。違いを、はっきりさせよう。きちんと区別し、質的な違いを際立たせよう。
まず、自分が他者に接する【姿勢A】として。。。①相手の話に耳を貸さない、②相手の話が終わらないのにスグに反論する、③瞬間湯沸かし器のようにカッとなって怒る。
次に、自分が他者に接する【姿勢B】として。。。①相手の話をじっくり聞く、②基本的に反論しない、ぜーんぶ受け止める、③しっけたマッチみたいに全然火が付かない。
これぐらい歴然と差があるAとBを想定しておきながら、常に意識して主体的にBのほうを選んで、他者に接しようとしてみる。
これをやる。ひたすらやる。生きているかぎり、やり続ける。
どれぐらいの頻度でやるかというと。。。
仏教の認識論で言えば、人間の意識は3秒ごとにリフレッシュされるわけだから、3秒ごとにBを選ばなきゃいけない、ってことになる。
なので。。。
いち、に、さん、ビー!
いち、に、さん、ビー!
。。。みたいな。。。
このような取り組みを、別名「無理ゲー」と言う。
【無理ゲー】「ゲー」はゲームの略。俗に、難度の高すぎるコンピューターゲームのこと。転じて、実現不可能だったり、達成が非常に困難だったりする物事のたとえ(by デジタル大辞泉)
このため、自分は観念し、降参し、白旗をかかげなければならない。。。
ダメでした、やってみようとしましたが、できませんでした。。。
それは素直に認める。。。
その上で、祈り求める。このように。。。
父なる神は、イエスをとおして、聖霊をあたえてくれる、わたしたちに。
この祈りを祈り終えて、立ち上がるとき、自分は次のような新しい構造を生き始めることになる。
「聖霊」が自分のうちに宿り、内なる力となり、AではなくBを選ぶことが出来るよう助けてくれる。自分は聖霊に全面的に依拠する。
そういう構造だ。
わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと
お前たちは生きる *
わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら
霊の導きに従ってまた前進しましょう **
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです ***
では、気を取り直して他者に向かおう。そして、ひたすら話に耳を傾けよう。ノドまで出かかるけれど、反論は飲み込もう。反応しない。反応しない。反応したら負け。怒りは次の3秒に持ち越さない。この3秒で消滅。いち、に、聖霊、ビー。いち、に、聖霊、ビー。。。ああ、話が終わった。。。はい。。。じゃあ。。。さようなら。。。
やった! 上手く出来たかも!
註)
* Cf. エゼキエル 37:14
** Cf. ガラテヤ 5:25
*** Cf. ローマ 8:14
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