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すべての罪を赦された。。。だから、もっと罪をおかそう、ってことになるの? っていう話です。

今日の聖書の言葉は、賢人王ソロモンがエルサレムに神殿を建立したとき、王の夢に「神」が現れて語ったとこだ。

そこだけ読むと、スバラシイことが書いてあるねー、ってなる。

黄金色に輝くエルサレムの神殿。。。

そこに罪人つみびとが行き、ココロから悔い改め、ひざまづいて祈るなら、「神」はすべての罪を赦す、って、ほかならぬ神自身が約束してるんだから。。。

今日の聖書の言葉。

もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。
歴代誌下 7:14 新共同訳

こんなスバラシイことはないよね!

ところがねー。。。

現実は、スゴイ悲惨なことになって行く。。。

なんと、賢人王とうたわれたソロモンが、晩年は理性を失ったみたいになっちゃう。

そして、ありとあらゆる快楽に溺れて行くんだ。。。

その快楽の内容たるや。。。よい子たちにはとても言えないような、あれや、これやで。。。なので省略(笑)

まあ、アタマの良いソロモン王だから、そういうことをしたのには、それなりに理由があったんだろうなあ、とは思うけど。。。

ありとあらゆる快楽をとことん追求した感想、っていうのが、ソロモンがコヘレトという別名で記した本に載っていて、どういうのかというと。。。

なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい
 *

もうね、ワロタ、としか言いようがないんだけど。。。

この賢人王の堕落からイスラエル・ユダヤの歴史は、悲惨な方向にカーブを切って行くことになる。

ソロモンが残した王国は、うちわ争いで分裂。続く王たちはソロモンの快楽路線に乗っかって、エルサレムの神殿をありとあらゆる快楽の場所としてしまう。その内容たるや。。。えーっと。。。うーんと。。。

やっぱ言えない(笑)

興味のある方は列王記下 23章あたりを読んでみられてください。。。

もちろん、ココロある王のなかには、こんなことじゃあだめだ、って、宗教改革を断行したひとたちも、いたんだけど。。。

でも、ノドもとすぎれば熱さ忘れる、で、しばらくしたら、またもとの状態に戻ってしまうていたらく。。。

最終的に、エルサレムの神殿はバビロンの軍勢によって徹底的に破壊されてしまう。それが紀元前 588年のことだ。

わたしの名をもって呼ばれているわたしの民が
ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め
悪の道を捨てて立ち帰るなら
わたしは天から耳を傾け、罪を赦し
彼らの大地をいやす

エルサレムの神殿は、そこで真剣に祈るなら、あらゆる罪が赦される、浄化の場所だった。。。はずなのに。。。

しかし人間は、それを逆さまに受け止めて、あらゆる罪が赦されるのなら、それを前提に、罪をどんどんおかせばいいじゃん、っていう倒錯に走って、浄化の場所は快楽の園に変貌してしまった。。。

人間のゴウのオソロシさを感じるね。。。

このような旧約聖書の行き詰まりを打開するかのように書かれた新約聖書は、やっぱり、罪人が悔い改めるなら、どんな罪でも赦される、っていう同一路線を行くように見せるんだけど。。。

でも、ちょっと違うんだよね。。。

旧約聖書の浄化の場所は、木と石でできた神殿だった。

罪を赦された人間は、木と石でできた神殿を離れて、帰って行く=返って行く、もとの罪だらけの状態に。。。それが旧約聖書なんじゃないかと思う。

新約聖書の浄化の場所は、イエスという生きたパースンだ。

罪を赦された人間は、だんだんイエスに似たパースンに変えられて行く。それは、聖霊を通してイエスのいのちがその人間に移植されるからだ。

罪を赦されて生きている自分は、ときどき、小ソロモン気取りで、でも、おっかなびっくりで、ちょっとだけ快楽を試してみる。。。

その結果、実感するのは。。。

なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい

やっぱソロモンと同じじゃん!(笑)

しかし、イエスのパースンにあこがれて、イエスにならって生きようとチャレンジして、日々、自分に与えられた十字架を負いながら、すこーしずつ、すこーしずつ、自分がイエスに似たパースンになれた、と思えたら。。。

その満足感は、なにものにも代えがたいよね。

だって、それは、自分の外側にある宝石をみがく喜びではなく、自分の魂の内側にある宝石をみがく喜びだもん。

泥棒は絶対これを盗むことが出来ないし。

愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
ヨハネの手紙一 3:2-3 新共同訳

註)
*  Cf. コヘレト 1:2

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