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ほんとうの安心安全は、どこに?

有史以来今日まで人類は絶え間なく戦争している。その悲劇の歴史の発端となった人類最初の暴力行為を聖書は記録していて、それは兄と弟のあいだで起きたものだった *¹。すべての人類は家系を遡れば共通の先祖(アダム)に通じる、だから人類みんな兄弟姉妹、戦争やめよう、という呼びかけがあるけれど、結局、最初の悲劇は兄弟間で生じたわけだから、家族的紐帯の意識を全員持てたとしても、争いの予防にはならないのだろう。第一次世界大戦なんて、ぜーんぶ血縁関係を結んでるヨーロッパの国王たち・女王たちの統治下で戦われたわけだし。その悲惨な総力戦に激怒した諸国民は、安全保障に瑕疵のあった国王たち・女王たちを次々廃して共和制に移行し、国際連盟を設立し、不戦条約を結んだ。それで世界は平和になるはずだった。けれど、それでも第二次世界大戦の勃発を防げなかった。聖書は、争いの原因は欲であり罪である、と指摘している *²。

何が原因で
あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか
あなたがた自身の内部で争い合う欲望が
その原因ではありませんか

欲も無く罪も無い人間というのは、聖人(セイント)しかいない、と考えるなら、世界の住民が全員聖人にならない限り、争いはなくならないのかもしれない。。。

そんな止むことのない争いの中で、生き残るため、勝ち抜くため、さまざまな「知恵」が蓄積されて来た。それを知恵と言っていいのか、必要悪と言うべきなのか、わからないけど。あまたの戦争の経験を考察することで築きあげられたそれを「戦闘教義」(Battle Doctrine) って言うんだけど、その中には陣地防御と築城術の項目がある。堅固な城を築いて敵の攻撃をはねかえすと共に、城の内部で避難民を保護し、疲弊した兵士を休養・回復させ、友軍の応援の到着まで持ちこたえる、あるいは、戦略を練り直して城から打って出るなど、城には重要な役目がある。だから、城を攻め落とされることは、戦いの重大局面になる。そういう城の構築におけるシンボル的存在が「塔」だ。高い塔は遠くまで見晴るかして敵の動向を把握できるし、その威容でもって敵を精神的に威圧できる。たとえ城壁を突破され最終局面に追い込まれても、塔の内部に避難民や兵士を収容して、ほんとうに最後の最後の最後まで、守りとしての役目を果たす。それが塔だ。

今日の聖書の言葉。

主の御名は力の塔。 神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる。
箴言 18:10 新共同訳

しかし、ね。。。なんと多くの城、なんと多くの塔が、破られ、倒され、燃やされて来たことか。人類史上最大最強の要塞は、なんと言ってもフランスがドイツとの国境沿いに構築したマジノ要塞だけど、第二次世界大戦が始まるとドイツはぐるっと北から迂回して背後に攻め込むことで、なんなく突破してしまった。歩兵は徒歩で移動できても巨大要塞は歩けないからねー。この敗北の結果「戦闘教義」は大きく書き換えられ、現代戦では城を築いたり塔を建てたりすることは、もはや、しなくなってる。これはつまり、人間がどんなに苦労して築き上げた城や塔も、最終的な安心安全の保障にはならない、という悲しい現実を示している。マジノ要塞でそのことは実証済みだ。そして、何千年にもわたり多くの戦乱を通り抜けて来たイスラエル・ユダヤの民は、身をもってそのことを経験して来た。彼らが自分の魂以上に愛したエルサレム。。。それはひとつの巨大な城だけれど。。。一度ならず二度も破られ、神殿と共に破壊され、焼き尽くされている。

だから、人類史の経験上、われわれが逃げ込むことの出来る「塔」なんて、無いんだ、ということになる。けれど、だからこその、この聖書の言葉につながるんだと思う。

主の御名は力の塔
神に従う人はそこに走り寄り
高く上げられる

うるわしいイエスの御名。イエスの御名こそ、われわれが最後に逃げ込める安心安全な場所だ。敵がふるう最大の武器は「死」だけれど、なんとイエスは死んで復活することによって、死を無力化した。イエスは、イエスにすがる者を、世の終わりの日に復活させてくれる。その結果、人生の重大局面は、地上での死の瞬間から、歴史の彼方における復活の瞬間に、強制的に変更された。人生死んだらオシマイだったものが、いまや、復活する!人生ハジマル! になったのだ。だから、重大局面の意味も変わることになる。重大局面とか最終局面と言えば、勝利か敗北か、どちらかにしか分岐しないわけだけど、イエスが復活し・ゆえに・われわれが復活することにより、重大局面は、いつも・絶えず・常に・われわれの「勝利」にしかならない。「高く上げられる」とは、そのことを言っているのだろう。そして、それを補足するかのように、新約聖書はこう告げている。

「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう
コリントの信徒への手紙一 15:54-57 新共同訳

以上をふまえながら、しかもなお、非戦の誓いを追求しよう。それは、とりもなおさず、自分が聖人になることであり、他人にも聖人になるよう勧めることであるわけなんだけど。

註)
*1.  Cf. 創世記 4:8
*2.  Cf. ヤコブの手紙 4:1

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