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障がい者と表現

 人によって表現方法は様々。それは、障がい者でも同じ。

 音楽、ダンス、絵画、演劇、スポーツなど多岐にわたる。

 表現のなかには人を引きよせる「何か」がある。見る人や受けとる人を悩ませる「何か」。一言では、ムリ。表現者の「世界」があるから「そのキャンパスで描いている」とは言うけれど、自分とは違う感じ方、熱量に圧倒される。

 これまで障がい者と関わっていく中で、気になることがある。「何でも使って表現していいよ」と伝えると、うまく表現できないこともあるのではないか。色々ありすぎると、ストレスになることもあるかもしれない、と。ある程度、型があって、制限がある方がいいのかもしれない、とも思う。
 うまくいかないときもあるのは、誰でもそう。
 手が止まる。頭を抱える。ものに当たる。
 そして、人に助けられて伸びていく。

 感じたまま、見たままに表現する。そこには「才能」というより「感覚」と言った方が良いと思う。「感覚」のあとに「才能」が追いついてくるみたいにも感じています。
 障がい者は感覚が鋭いとは言われていますが、僕は特に「触覚」に注目しています。絵を描くときには描く道具やキャンパスの、色んなものを見る時でも触れるのならほんの少しの膨らみや凹みを、音楽を聴くときでも演奏の振動や肌に感じるピリピリ感を、演奏するときでも楽器の重さや振動を、肌で触れている。 

 精密機械のように細部まで。
 心の感覚で感じたままに。

 どちらにも共通しているのは「心」が表現されているということ。精密機械というと「心」がないように思うけど「まるで生きているかのように」とした方がいいのかもしれないね。
 
 たまに、怖くなる。

 何でこんな作品ができるのに、
 何でこんな表現ができるのに、

 「障がい者」という言葉を使われてしまうのか?

 表現以外のところだけでなく、その人全体をみて表現を見てほしい。
 作品を生み出す苦悩は、誰だって同じ。気に入らなかったら、ポイ。
 身体に障害があることで表現が限定されるなんてことはない!

 スポーツというと表現と離れているようだけど、自分の身体で「動き」を表現する。自分の感じている空気を切るかのように、ね。(言いすぎかな?)

 すごい!

 そんな中、僕がモヤモヤしているのは、障がい者という枠組みで注目されてしまうこと。表現者である障がい者は「障がいがあること」を表に出していることもあるのかもしれないが、それでいいのかと気にしてしまう。だって、そうなると作品よりも障がいの方が目立ってしまう。
 評価は厳しいものになるかもしれないが、自分の作品に自信があれば、一般の作品展に出しても良いと思う。

 障がい者が表現して、障がい者が見る表現ではなく、だれでも見れる表現で、なお、表現を見るだけでは「障がい」ということが分からない。そのことが社会に浸透していったらいいな。

 そうなると、このnoteも一つの表現の場になってほしいな。本人が投稿しなくても団体の代表者が投稿すればいいね。

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